web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後2時。なかなかブランコの止まらない。

◇娘がいつのまにかブランコを漕ぐようになっていた。座ったまま足を使わず、揺れるリズムに合わせて、体重移動だけで漕いでいる。メトロノームのように一定のリズムだ。

911は我が家では息子の誕生日であり、私と妻が親になった日のことである。

◇1歳8カ月を過ぎて、娘はなんだかおしゃれに気を遣う。洋服のコーディネイトや小物はもちろん、おむつの柄にもこだわりがあるようだ。おしゃれは見えないところからということだろうか。

◇先日は私のライヴがあり、そのちょうど一週間前には息子のピアノの発表会があった。
 もともと緊張しまくるはずの私が、14年ぶりのライヴでもそこまで緊張しなかったのは、先週の息子の様子を見ていたせいかもしれない。失敗を嫌がる傾向のあった息子が、なぜだかここ最近、やたらと思い切りがいい。舞台袖まで付き添ったが、リラックスし過ぎていてこちらが心配になるほどだった。出来はまあ、リハのときよりもテンポが遅くなってしまったというのはあったが、本番でも小声で歌いながら演奏していたし、練習とさほど変わりない様子で淡々とこなしていた。
 わからないことがわかるようになる、できないことができるようになるという感覚を覚えてくれているのであれば、これほどうれしいことはないと思う。私がそれを自覚できるようになったのは、本当につい最近の話だ。

◇9月9日は、なんだかアラザルメンバーが活発になる日だそうで。昨年はアラザル山本浩生の個展があり、今年は諸根陽介のライヴと杉森大輔&私のライヴが思いっきり被っていた。来年は何かあるのだろうか。
 というわけで先日のライヴは大変楽しめた。杉森さんが誘ってくれたこのジャズバンドという形式が、おそらくちょうどいい感じにしてくれたんだと思う。流行りに乗らなきゃいけないというヒップホップゲームの外だというのも大きい。ただ、さすがにもう少しはラップうまくなりたい。

◇個人的には、ゆるふわギャングと唾奇はきれいなコントラストを描いていると思う。ゆるふわギャングが素晴らしいのは疑いようもない事実だが、最近は唾奇とsweet williamのコンビに持っていかれている。90年代からの接続を感じているのだと思う。

◇リアルとフェイクは表裏の関係にあるというよりも、同一線上にある場合も少なくない。ヒップホップにおいては、フェイクはリアルに先行してコンセプトだけを提示している状態でもある。いわばプレ・リアルとしてフェイクがあり、そのあとには必ずリアルな奴らが現れる。
 リアルを「本物」と訳した場合はそういうことになるが、「現実」と訳す場合、対比されるフィクションというのはどういうものなんだろうか。フィクションは、いうまでもなく現実の映し方でしかない。いかなる現実も、フィクションを通さない限り提示できない。こうした理解においては、ドキュメンタリ/ノンフィクションは広義のフィクションに含まれるということになるわけだが、個人的にはそれで問題ないと思っている。
 「本当のこと」はフィクションを通じて描かれる。その意味においては、コンセプト重視のフェイク野郎であっても「本当のこと」を語ることは可能だし、反対に実体験を語るはずのリアルなやつらが「本当のこと」を歪曲してしまうことだって可能である。

◇そして私には、ポスト・トゥルースというのがいまいちよくわからない。

◇今年の日本語ラップは大豊作だけども、これはたまらなくいい。