web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

僕らの好きな女子(書き途中)

◇相変わらずこないだのLife(方法としての体育会系http://www.tbsradio.jp/life/2008/07/part5_8.html)の話。

◇前提を疑うことができるか否かは文化系か体育会系かというよりも、オリジナルかワナビーかという問題なんじゃないかって風なことを前書いた。
 多分いわゆる「体育会系」っていうと、前提を疑わずに突き進むってイメージの人を指していて、「文化系」はそっからあぶれてしまったがゆえに前提から疑わずにはいられなかった人を指している。でも「文化系」とかっていっても、みんながみんな前提を疑って独自に価値観を作り上げてるかどうかは結構疑わしくて、結局「文化系」の中には「文化系の前提」みたいなものが出てきちゃって、結局「あんた何教信じてんの?」みたいなだけの話になってしまってる状況がある、という気がする。
 体育会系教信者には、神という審判がきちんと存在して、そこに自分を照らし合わせるから、間違い/正解という明確な線引きがある。文化系教信者には神が存在しない、とされている。だから基本的にはみんな不安を抱える。そこで神を再構築しなければならない。でも信者は愚かだから、それこそ「文化系の神」みたいなものを求め、妙な雑誌的宗派を立ち上げて戦わせたり*1、あるいはどさくさにまぎれて自分を神に仕立て上げたりする*2
 オリジナルな人というのは、自分の中に、自分以外の神を作り上げることに成功し、そしてその神が共有できないことを知った人なのだと思う。

◇注釈:もはや体育会系的なメインストリームな前提はないので、みんなが不安なのかもしれない。自分で考えることは不安なので、みんなが考えずに信じたいと思う。「べき論」「運命論」が巷に溢れ、過剰に自分を信じて自意識を暴走させる。でも、不安は、実は自分が自由であることに気付いている状態なので、ここが考えるチャンスだと思う。

◇ところで、僕の好きな女子は体育会系的に、前提を疑わない女子だ。その中でも、明確に勝ち負けが決まってしまう体育会系的価値観の中で、負けてしまって自信喪失してしまっている女子だ。
 彼女らは自分が負けたことに対して前提を疑うことをしないから、マジに自分のことをイケナイコ・悪いコと認識する。そういう自己認識をあらかじめ持って、そもそもの自尊心を低く低く見積もることによって、彼女らは競争に負け続ける自分へのワクチンを打っている、ということだと思う。
 多分だけど、それはそれで回る社会なんだろうと思う。そうして彼女らが追い詰められ、自殺してしまったとしても、周りは「あのコは弱いコだったんだね。かわいそうに」といえばいいわけだから、その社会全体の価値観はそこで担保されてるわけだから、円満に解決する。でも、前提を疑うことをする一部の人間からすれば、これは怒りに打ち震えるべき事態であり、このようなものこそ卑劣であり無知な暴力だと思う。

◇笑われるかもしれないけど、僕は「負けた体育会系女子」と「文化系男子」の恋愛に、共通前提のない不安と共存する道があるんじゃないかと、結構本気で思っている。

◇負けた体育会系女子を、僕ら文化系男子は救ってあげる可能性を持っている。そして、救うという行為によって、僕ら文化系男子も救われることができるのではないか。
 負けた体育会系女子は、この社会が多神教であることを知らない。だから、体育会系以外にも神がいることを教えてあげられる文化系男子は、彼女の存在を肯定できうる。しかし、これは文化系男子がワナビーからオリジナルに脱皮できるか否かの踏み絵にもなっている。思考停止状態で耳に心地のいい言説ばかりを探していたワナビーが、自らの頭で考えることを試されるのである。

◇ちょっと待って。そろそろテストだから待ってて。あと、今夜は飲みなので、続きはまた今度になるかも。

*1:こういう感覚マジでキライ→http://www.tbsradio.jp/life/2008/04/part1_15.html。戦って他の誰かと差別化することで自分の宗教的アイデンティティを高めようとしてる。迷惑この上ない。

*2:自分を審判にするので、本人が負けを認めなければどこまでも負けない。自分は間違えないという傲慢。