web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前11時。二度寝しても朝。

◇最近は平日も週末も関係なく7時頃に起きる。朝一番に聞こえるのは、洗濯物を妻がぱんっと干す音だったり、息子が目を覚まそうとぐずぐずする声だったり。なんともまあ仕合わせな光景のなかで目覚めるのである。
 今朝もそんな風に目覚めたのだと思うけれど、昨夜は夜更かしをしていたせいか、朝食後につい二度寝をしてしまう。結局目覚めたのは11時頃。考えたら、僕は小学校高学年くらいからずっと、週末はこれくらいの時間に起きていた。にも関わらず久しぶりにちょっと遅く起きると、一丁前に一日が短いとか思うのである。

二度寝をしてもすっきりとはしないまま、家族で近所のリサイクルセンターで催されているお祭りへ。お祭りとは言っても、フリーマーケットが主な企画内容で、やきそばなどの模擬店がおまけ程度にくっついた印象。とはいえ僕は屋台が大好きなので、昼食はそこで済ませることにした。食後は息子用に子供服を中心に物色していたけれど、思ったよりも男児服が少ない。お昼までに売れてしまったのか、それともデザイン豊富な女児服の方がフリマで売れるのか。結局買わずに帰ってきた。途中で雨がぽつぽつと来たせいもある。

◇水泳は40分1850メートル。プールはこの時季の割には混雑していた。

◇昨日は息子用に新しい絵本を見に行く。既に一冊、生まれる前に購入したものがあるのだが、それを見せると、なんとはなしに眺めていることがある。図像を輪郭から認識しているのか、色のコントラストにめまいを覚えているのか、あるいはそれらと僕や妻の音読をリンクさせているのかいないのか、全くもって定かではないのだけれど、僕らは急いで、張り切って別の絵本を買いに行ってしまう。

◇いくつか絵本を眺めているうちに、大きく二つの傾向があるように思えてきた。子供の知覚を刺激するものと、親の教育的自意識に訴えるもの。前者は何よりもリズムが重視されており、色のコントラストや類似の図像をリズミカルに反復することでページが進んで行く。対象年齢が低いものはほとんどこのリズムだけで成り立っており、年齢が上がるにつれ、リズムから物語が展開していくようになる。後者はこの逆であり、物語やテーマなどが先に設定され、そこに後付けでリズムらしきものがはめ込まれる。今、らしきもの、と言ったのは、つまりそこには内的なリズムなどなく、ほとんど拘束的な伸び縮みの無い形骸化した拍子があるだけである。対象年齢が上がると、物語とテーマだけで構成され、あからさまにリズムを無視している作品すらあって、嫌な気分になる。

◇息子の視線を受けて色々とはしゃいでみせる僕と妻は、カメラを向けられておどけてみせる子供の姿とよく似ているのかもしれない。それを編集してひとつの映画に練り上げるのは、いうまでもなく息子の役割である。

◇パブリック娘。『Boys and Girls don't cry(X'mas mix) 』

メランコリックなトラックに、ぶっきらぼうに挿入される「J-pop」のサンプリング、そこに三人の巧みなラップが絡まり、一筋縄ではいかない、複雑に絡まり合った感情が浮かび上がる。単にセンチメンタルと形容されがちなこの季節を、夏と冬の間であると言い切ってみせることで、どっちつかずの宙ぶらりんな状況をそのまま描いてしまう。もしかしたらこのラフなエディットとラップは、現在のパブリック娘。にしか表現できないものなのかもしれない。が、少なくともこの状態を録音した、録音できたということを、僕は悦ばないわけにはいかないのである。おそらくこの表現の強度は、今年の震災直後にボムされた、ECD『EXODUS11』と同等である。

午前11時。曇りのモノトーン。

◇手の絵を描いたとしたら、背景部分の余白がそのまま空と同じ色をしている。温度や湿度も、そんな感じの天気だった。

◇家族揃って買い物へ。いまのうちに冬支度をしておかないと。

◇昨日は久々に水泳。一ヶ月以上のブランクのせいで腰が重い。今日は泳ぐと決めたものの、直前になって今日はやめて明日にしようかなあなどと漏らしはじめる。妻に背中を押してもらいながら外へ出ると、随分と寒くなっていた。
 久々に泳ぐときは1500を目安にするのだが、結局昨日は45分で1750メートル泳いだ。震災後、6月に再開してから夜は17時までの営業だったのだが、最近は週の決められた曜日だけ21時まで開いており、段々と震災前の営業に近づいている。

アラザルの原稿が出揃い、今回の同人の原稿を全て読む。これだけの論考を全員が書くということを毎度の目標にするのは、それはそれは大変な集中力とプレッシャーを要するわけだけれども、2008年から今まで、なんとか発行を続けてきていること、さらに同人ひとりひとりは各自の思考をどんどん深めていっているということを考えてみると、改めて驚いたりする。アラザル2号には大谷能生氏のインタビューを掲載しているのだが、そのなかで氏は「10年スパンで考える」という話をしていた。なるほどたしかに、アラザルも10年は続けないと、何かしっかりと手触りのわかる形を作らないだろう。そういうことが、今は非常に生々しく感覚できる。10年といえば、2018年くらいだ。どんな形態でもいいから、とにかく続けなければいけない。

◇息子は最近、なんだか笑いそうなそぶりを見せる。腹筋を痙攣させたり表情筋を動かしたりと、いわゆる笑うという行為をするだけの身体的な準備は整っているようなのだけれども、「笑う」を「泣く」のような自律した身体運動となるまでには、まだ少し時間が必要なんだろう。歌ったり踊ったりするとかなり反応するようになってきたので、僕は最近脇腹までくすぐり始めている。そうすると、ごくごくたまに笑顔を見せたりもするのだけれど、ほとんどの場合、まだ不思議な感触とそれに対する内的な反応に戸惑っているのか、眉間に皺を寄せて迷惑そうな顔をしている。そしてそのうち泣く。そこで笑うようになるまでの回路が、あと少しで繋がるんだろう。

内閣府原子力委員会の報告によると、福島第一原発廃炉までに30年以上かかるらしい。30年後、息子は今の僕より年上になっている。



『カウボーイ・ビバップ』はジャズやらブルースやらフォークやらについての言及が多くあったアニメと記憶しているのだけれども、最終回(地上波のね)にhiphopが流れた、ということの意味が、最近になってようやくわかった。断片的な風景描写と、それをつぎはぎしながら繋いでいく最終話。そうして響く『空を取り戻した日』。hiphopという、サンプリングと物語の掛け合わせが正しく映像化されているように見えて来る。

正午。丸めた頭、秋の散歩。

◇少し蒸し暑いような天気だったけれど、バリカンをあててから出かけたため、風通しの良い散歩になった。

◇息子は毎朝、食事を終えると筋トレをする。その時間にBGMをつけることにした。どうも耳をそばだてているらしいそぶりを見せることもあるので、結構本気で曲を選んでいる。今のところレゲエ勢に興味らしきものを示しているようで、特にピーター・トッシュが強い。
 考えたらこういうのは久しぶりかもしれない。相手がどんなものに反応するのかを観察しながら曲を聴かせるというのは、以前は(というか今でも)よく妻にやっていた。付き合った当初の頃は、僕の自意識的な動機から曲を聴かせていた節もあったのだろうけれど、すぐにそういうのはなくなった。妻の態度が明確だったのもあるし、そういった妻の反応に、僕の方の自意識もきちんと整えられていったからだ。かといって妻の好みに完全に合わせて選曲するということもなく、気がつけば、僕らの音楽聴取とは、各々が持ち寄った曲に対して、自分が楽しめるものを見出す、という風になっていた。これは音楽に限らず、ドラマも、映画も、ひいてはあらゆることに共通する話である。

◇昨日、息子が少し耳だれを起こしていたので、駅前の病院に行ってみた。予防接種の相談もしたいところだったので、小児科医探しも兼ねている。着いてみればまるでホテルのように豪華な病院で、前日は二人揃って風呂に入りそびれ、今日に限ってくたびれた格好をしていた僕ら夫婦は気後れした。息子だけがきれいな格好をしているというのも、なんだか赤貧に喘ぐ若夫婦が、腕は確かだが値の張る医者に息子を診せようと、せめてもの思いで一張羅を着せたような雰囲気である。当たり前だが、それでも医療費は他と同様、自己負担無しだったので安心した。
 ここの小児科医は非常に人当たりの良い、体の大きな女医さんだった。少しキャシー・ベイツに似ている。いかにもベテランらしい逞しさと人懐っこい物腰に関心しつつも、いつか、突然何を考えているのかわからない表情になるのではないかと心配したが、もちろんそんなことはなかったのでほっとする。こちらの質問にもひとつひとつ丁寧に応えてくれる先生で、何かあったらここに罹ろうと決める。耳だれに関しては特に大きな心配をしなくても良さそうだった。

◇本日はベビーカーデビューを果たしたのだけれど、息子はあまり気に入ってはいない様子。激しく泣いて嫌がるということはないが、ちょっと立ち止まるだけでぐずぐず言い出すので、帰りはお気に入りの抱っこ紐を使うことになった。今日は僕が息子を抱いて歩いた。相変わらず息子は、僕の両手の親指を五本の指でしっかり握り、眠ることなく外の景色をよく眺めていた。

◇自分だけが可哀想だと心底思っている人間は、簡単に誰かひとりを悪者にできる。自分だけは全く悪くないと思うために、自分を可哀想な存在に仕立て上げる。かつての「サブカル」みたいな感覚にはそういった自己憐憫がいつもつきまとっていて、僕はその辺の不誠実さが大嫌いだった。そして、そういう人が古谷実を語るのが嫌でしょうがなかった。もちろんいまでもそれは同じ。先日『ヒミズ』の評にそういうのを見つけてしまったのだが、住田は安易な自己憐憫にひたるのを徹底的に拒絶するために「運命」と闘おうとしている、ということを彼は全く理解できていないのである。住田は俺だと語ることで自分の自己憐憫を補強して悦に入る人間には、住田の誠実さが理解されるわけもなく、同時に作品を読む誠実さもものすごい勢いで欠いている。



二番手のtech n9neが凄まじい。こういうラップをする人だとは知らなかった。ほとんど演説とラップが同じだということが改めてよくわかる。

午前10時。人差し指で、手をつなぐ。

◇今日は家族三人で八王子の街を散歩した。抱っこ紐で息子を抱く係を妻に取られてしまったので、手持ち無沙汰な僕は息子の手を触って遊ぶ。息子は五本の指で力いっぱい僕の人差し指を握る。

◇というわけで昨日、妻の実家から八王子に帰ってきた。息子は移動中眠っていたけれど、眠る前と起きた後で違う家に居るということがわかっただろうか。実家の柴犬、奈々は、僕らが滞在していた部屋に入り、寂しそうに匂いを嗅いでまわっていたらしい。祖母が、もうみんな帰ったのよ、と言うと、渋々部屋から出てくるのだという。犬は死と不在の違いを知っているのだろうか、というのは江藤淳の疑問だった気がする。

◇そのまた前日、金曜日は会社の休みをとって、妻と息子の一ヶ月検診に付き添う。僕は息子を、妻はマザーズバッグを抱え、混み合った院内を行き来するのは結構くたびれたが、家の外で息子と歩くこと自体がとても嬉しい。妻の実家に帰宅してしばらくすると、腰が相当痛くなっていることに気付く。

◇並行してアラザルの原稿を終わらせる。『ラッパー宣言』というエッセイを連載形式で書いているのだけれども、今回はラップについて、原理論的なことを書いた。書いている最中は物事が整理されていくことに快感を覚えるのだけれど、書き終えてみると、当たり前のことを今更何を言っているのだという気がしてくる。人間の認識というのは順応がものすごく早いので、だからこそ早計や焦慮などは危ないんだろう。

◇そういえば、3000メートル泳いで以降、水泳には行っていない。土曜日は移動、日曜日は母の訪問などがあったので、結局来週辺りから八王子の週末が始まるんだろう。今日はまだまだリハーサルである。であるが、息子は最初から本番のつもりでいるらしい。息子が声をあげるたび、妻がやさしい声色で返事をしているのを聴いている。

テレンス・マリックツリー・オブ・ライフ』。上映期間も終わりかけの時期に駆け込んだ。そのときはまだアラザル用原稿を書いている最中だったので、どうしてもそっちのテーマに惹きつけて観てしまう。つまりこれは、時間を自分のものとして掴む映画だ。
 生命の起源を語る映像の連続は、一歩間違えればやたら大仰で野暮ったい。これらは様々な生命の連鎖を順番に描いていき、そのままひとつの家族の物語へと流れていくのだが、この流れは見ようによっては、あるひとつの家族の物語を、この地球誕生の歴史になぞらえるようでもあり、尊大だと受け止められる節もあるだろう。ただ、これを長男による記憶、太古の昔から脈々と受け継がれてきた記憶として捉えてみると、全くもって凄まじい時間認識で何かが語られようとしていることに気が付く。別にネタバレどうこうが問題になる映画ではないのでためらわずに書くけれども、これは始めから終わりまで長男の視点で語られ続ける映画だと思う。生命の起源から両親の記憶、そして二男との思い出。これらは全て長男の肉体のなかに潜在する記憶という意味では一緒なのである。
 「自分の人生を掴む」というのは、父親が息子たちの前で話す台詞である。その裏で、父親自身もまた自分の人生を掴もうと躍起になっている様子が描かれる。音楽家になる夢をあきらめた過去と、仕事がうまくいかない現状。過剰なまでに息子に抑圧的な態度を取るのは、彼の人生の続きを息子に託すからである。長男は、自分の人生を父の人生から切り分けようと、次第に反発を強めていく。
 だが自分の時間を掴むために幼い長男が試みるのは、結局二男を支配することでしかない。それ以外の術をまだ知り得ない彼は、しかし自分が父と全く同じ行動を取っていることに無自覚でいられない。愛する弟を傷つけることでしか父から逃れられない彼は、常に引き裂かれるような感覚を覚える。二男の死を思うとき、彼はその念をより一層強くしているのだろう。
 だが映画、つまり彼の記憶とされている映像を観れば、彼は父の想定する「人生」とは別の時間を、様々なところで見つけていることに気がつく。風に舞うカーテン、女性の足元を揺れるスカート、川に流された下着。あるいは特徴的な歩き方を真似てみたり、ターンテーブルに手をつっこんでレコードを変速してみたり。つまりここでの時間の認識とは、ある大きな唯一の時間を自分の元へと引き寄せるのではなく、あらゆる方向に向かう流れを受けながら自分がどのような表情を見せるかなのである。それに気が付いた時、彼は複数の時間が交錯する地平へと一気に開かれる。この複数の時間の交錯が、自分の編み上げた自分の時間であり、つまり言葉であり、フィクションである。河口で記憶のなかの人物と出会い、語り、別れながら、彼は自分の物語を自分の手で紡いでいることに気がつく。僕らが夢想するエデンの園には、生命の樹が深い永遠のなかに根をおろすのである。

午後2時半。近所に飴を買いにいく。

◇休みの日はほとんど一日中、屋内で息子の様子を見ているので、なんだか久しぶりの外出のような気がした。近所では秋祭りの催しをしていた。来年は家族3人で行こうかなどと考えていた。

◇水泳はお休み。今になって、行っておけば良かったと後悔している。

◇現在妻の実家住まいだが、一応原稿に必要な本は数冊こちらに持ってきていて、ぱらぱら捲っては書いている。と、なんだか行き詰まってしまい、ここに来て一度きちんとメモを作って頭から書き直すことを決意。

 メモ。語りは、普段使いの言葉を駆使しながら、ひとつの連なりとして持続することによって完結した時間をこの場に再現してみせる。そのとき僕らは、唇から放たれた声の音色、リズム、音の高低に意識的である。演説も歌も、本質的な違いはない。
 メモ。全ての出来事は、一回きりの出来事であるはず。言語活動は、本来一回きりの出来事であるはずの瞬間を、既知の反復と認識させる。僕らが現実を知覚して再構成できるのは、この反復可能性に依る。
 メモ。反復可能な言葉とは、僕らの身体の外側にある言葉のことである。しかし、僕らは語ることができる。語りとは、身体の外側にある言語的認識を、発話という行為によって接触可能なものにする。肉体を通じてひとつの完結した空間を作り上げる。
 メモ。録音は、肉体の介在しない音を提出してしまう。
 メモ。聴くという行為は、鼓膜に触れる全ての空気の振動から、特定の音を選別することであり、だからこそ全ての音を言葉とそれ以外に分類しようとする。もしその選別作業がなかったならば、それはもはや聴くという行為ではなくなり、また聴くという意識を自覚できなくなってしまう。
 メモ。録音は、しかしその場で震えていた全ての音を分け隔てなく記録してしまう。人の手を介さずに、言葉を介さずに、純粋に物理現象だけを機器が拾い上げる。
 メモ。ラップは、録音時代の語りである。

午後2時。夏の意地。

◇夜に雨が降ると、一気に冷たい風が吹いていた。息子の肌着を長いものに変え、手や足を握って何度も体温を確かめる。

◇すぐに一週間が過ぎてしまった。金曜日、妻子は無事に退院し、妻の実家で僕らの生活がリスタートした。一ヶ月後の検診までは、僕も一緒にお世話になる。

◇水泳は、100分3000メートル。いつもは1時間200円の八王子の市民プールを使っているのだが、今回は妻の実家に近い市民プールを利用したので、2時間300円だった。時間が長いせいか、焦らずにゆっくり泳げるのがいい。しかしこちらは利用者のレベルが高く、八王子に比べてペースが速い。

◇息子の一挙手一投足が面白くてたまらない。原稿が全然捗らない。

午前5時半。日の出が鋭く顔を照らす、光が温かい。

◇この痛みが腹の張りによるものなのか陣痛なのか、あるいは本番の陣痛なのか前駆陣痛なのか、はっきりとしないまま病院に行くことになった。我慢できないほどのものではなく、臨月の妊婦ならこれくらい日常茶飯事なのだろうと笑っていた妻だが、念のため間隔を測ると徐々に狭まっていくようだった。出戻りになったら恥ずかしいねと言いながら妻は病院に電話をかける。はじめての妊娠であるのだから、世に言う陣痛がどの程度のものなのか、僕らは比べる術を持たない。応対した看護士もとりあえず来てみますかといった具合だったので、その日に帰る可能性も考慮に入れつつ妻の実家を出た。義父が車を出してくれた。
 助産師に調べてもらうと、腹部の張りの数値は高く、人によっては相当の痛みを伴うものらしい。しかし子宮口が依然として固いままなので、僕と妻は長丁場を覚悟した。このとき午後10時。定期的にやってくる痛みを陣痛と捉え、呼吸を整えマッサージを施すようにした。陣痛のないときは普段通りの会話をしていて、僕は合間を縫って義父母に、今日はこのまま入院になるそうです、長丁場かもしれません、と電話をかけた。
 痛みは次第に強くなっていき、何度目かの診断でようやく子宮口が4センチほど開いたという。指圧をする位置もどんどん下がっていき、妻は陣痛のないときさえ少し苦しそうである。助産師曰く、早ければ朝7時には生まれるかもしれないという。大体午前2時くらいだった。この後の最も苦しい時間帯に入ると、妻は苦しい呼吸に嗚咽を滲ませ、僕はマッサージをすると同時に力みの少ない呼吸を促すようになっていた。丁度このとき、この病院で出産に臨むのは僕らだけだったようで、妻が苦しそうにするとすぐに担当の助産師がやってきて、巧みに妻を安全な出産へと誘導していた。僕はそれを手本にすれば良かったので、非常に幸運だったと思う。

◇見事に安産であった。弱気なそぶりも見せず、助産師のアドバイスを素直かつ丁寧、真剣に実践してみせた妻は、四回ほどのいきみで息子を出産した。分娩室に入って30分足らずである。息子は威勢良く産声を上げて、周囲を笑わせていた。妻が笑って、僕が笑った。医師と助産師、看護助手などが取り上げた時間を確認する。午前4時手前。息子は肺呼吸を開始し、それが僕らの便宜的に共有する時間に記録される。

◇2011年9月11日、僕は親になった。

◇童貞として相対的に唯一の存在になることを望む。誰かの恋人になって絶対的に唯一の存在であることを引き受ける。夫となって自分が彼女の唯一であることを社会的に通知する。親になって自分の死後を個人的な問題として考える。僕の社会的な呼称は複数化していき、そのどれもが正解であるが、どれかだけが正解ではない。童貞を捨てて誰かの恋人になり、恋の季節を終えて結婚生活を始め、結婚生活と引き換えに子を育てるといった認識は、きっとどれも充分なものではないのだろう。自分の中に複数の自覚を得ることで、僕らは自分の生活にグリッドを引いていく。普段の生活、不断の運動の中に視軸をいくつも走らせることによって、より繊細で豊かな身体の運動が可能になる。10年前、テレビ映像で世界の混沌を望んではしゃいだ高校生は、その後、自分を複数化して捉えることによって、世界が既にして混沌であったことを知った。それが恐怖であり、が故の豊穣さであることを理解した。僕はこの10年間がそれなりの時間であるということに、ようやく気がつく。

◇産後の妻と談笑する。この数ヶ月、妻と二人で話すときには、胎にいるもうひとりを会話の当事者としていた。だが今、妻の腹に息子は居ない。なんだかさみしい気もするねと妻が笑顔で話す。お互い少し休もうと言って、寝床のない僕は入口のソファを目指して部屋を出た。出産は一晩で終わった。廊下を曲がると急に日の出の光が差し込んで、僕の顔をしばらく暖めていた。