web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

◇雪が降ってテストがなくなればいいのに。でも寒いのもいやです。

◇いまさらな話題だけれど、通り魔の動機とかで「誰でもいいから殺したかった」ってのはなんともまあ悲しい話だと思う。語弊を怖れずにいえば、スケールの小さな話だってわけで、「自分とは関係なく世界は回る」というどうしようもない事実と向き合ったときに、「だったら世界をオレ中心に回してやる」くらいの覚悟も持たず、自分の存在意義に悩んだ末、自分より力の弱そうなやつに襲い掛かる(or自分を殺す)。それも素手では自信がないので、武器を持つという。知識武装して先手を読むのもおんなじこと。
 でも、あの「俺を侮辱するな!」っていう叫びにどうしても胸が締め付けられるのは、そこに自分を投影させちゃうからだろうな。自分の小ささや醜さが直視できずに、自分をお山の大将にするようなシモキタによくいるようなヤツらをバカにしながら、かといって自分もそんなヤツらとおんなじで、行き場がなくなった末に最悪の“お山の大将”になってしまうっていう。
 ただ、一番ムカつくのはそういう事件になんにも感じないシモキタによくいるような(←ここ笑うとこだからねw)、お山にいることすら知らずに群れるお山の大将たちですな。

◇『The World Is Mine』(新井英樹)には、文字通りの“世界”を相手取って、その中心に自分を置こうとするテロリストが描かれる。彼らは世界のあらゆるものを撹乱し、そのことごとくに自分たちを絡ませようとする。
 それとは対照的に、『ヒミズ』(古谷実)は、自分にも他の人にも「世界」は存在するが、その見え方が違う、だから自分から見える「世界」については、自分を中心にしようと決意する14歳の少年の話。それは、「運命」と対決することを意味する*1
 こういう作品があることが、どれだけの人の救いになっただろうかと思ったり。

◇バイト先の主任さんに洗脳され、僕もバナナシンパになりそう。

*1:「運命」という自分の「世界」に入り込んでくる外部の要素が、『ヒミズ』においては自分を見つめる異形の者、『僕といっしょ』ではジャッキー・チェン(1巻で吉田あやこに「ダメ」と言っている)として現れている