web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

批評のひひ

◇新規BRAINZ初日。
 円城塔の処女作『オブ・ザ・ベースボール』を熱く語る佐々木さんを見た!!
 批評の普遍性について、受講生の一人であるMさんが面白い視点を提供してくださった。ある作品と接して、自分が通説となっている「評価」とは異なる感想を抱いたとき、自分が正しいのかみんなが正しいのか悩むことがある。大方の「通説」が機能しているのは、そこにある種の普遍性があるからなのではないか・・・って話。
 たしかになあ。
 最終的にはそれってわかんないよねって話しにならざるを得ないとは思うけど、それって「社会」をどうやって扱うかって話にも見えてきたり。普遍性が社会的に有用か、あるいは個々に考え抜くことが有用か、どちらを自分がよしとするか、みたいな。

◇ちょっと話を広げてみるけど・・・

◇何が正しいかわからなくなったとき、自分で考えていくことを選択する自由(=不安)を喜ばしいと思うか、恐ろしいと思うかってときに、倫理的であろうと思った結果として通説に寄り添うって考え方も現れると思う。今「倫理的」って言い方したけど、倫理的っていうか、単純に「人に迷惑をかけない」ってことだね。んで、この間(青山ブックセンターで佐々木さんとの対談イベント)の東さんも、すんごく乱暴な言い方をするとそういうことの中に含まれちゃうんじゃないかって気がする。「自分の発言の責任をどこまでも背負う」=「人に迷惑かけたくない」、と*1
 ただ、自分で考えていくことに不安を覚える人の多くは、「通説」に寄り添わない、自分なりに頑張って考える人を批判する傾向があって、僕はそれが嫌だ。「通説」に寄り添うことを選択するのは、それはそれでいいと思うし、それはある意味それぞれの「性分」から辿り着いたともいえるから、許容されるべきとは思う。でも「通説」に寄り添うことを選択した人の中には、自分と異なる性分を持った人を許容できないほど不安な人がいて、しかもそうした人たちがある程度の影響力を持つくらい*2になっているのであれば、それは全然「通説」として社会的な「普遍性」をもっているとは、言えないんじゃないのかなって。

*1:ここで『童貞。をプロデュース』でのカンパニー松尾の発言「人に迷惑をかけたくないっていう考え方ほど傲慢なものはない」を引き合いに出すと、すんごく生きやすくなるよね

*2:まあベタに亀田とか朝青龍とかの話ね