web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後11時。夜の雲を眺めて散歩。

◇僕らにとっての夜遊びとは、ふと思い立って24時間営業のスーパーや、遅くまでやっているブックオフ、ツタヤに行くこと。
 今日はブックオフ古谷実ヒメアノ〜ル6巻』と村上龍アメリカン★ドリーム』を買う。家に帰ると、本棚に既に別の『アメリカン★ドリーム』があって、中学生か高校生の頃に読んでいたのを一気に思い出した。持ってる気がして最終的に購入を見送った本に江藤淳『閉された言語空間』があり、やっぱりちゃんと本棚にあった。こっちはまだ読んでいないのだけれど、実は既に読んだ本の方が重複して買ってしまうのかもしれない。

古谷実わにとかげぎす』と『ヒメアノ〜ル』は、いずれきちんと読み解かなきゃいけない。『稲中』から『シガテラ』までの、「絶対」の希求や「自意識から自我へ」というものとは、テーマが違って来ていると思うからだ。

◇二次元っていうのが点と線の集合だとしたら、つまりそれは自と他に区別をつけない世界のこと。するとでは三次元とは、物のひとつひとつを区別して、自と他をしっかりと分かちたい世界、ということになる。物に名前をつけるというのはそういう欲望の一貫で、対象を背景から浮かび上がらせて、自分の中に取り込んでいく。これはつまり言葉が生まれた瞬間だけれど、ただし、このときの言葉っていうのは、名詞(体言)だけだろうと思う。
 さて、言葉には体言と用言があるわけで、用言というのはどういったものだろうと考えてみる。物事を対象化して、体言に変換していくと、個々が切り離されて、断片化しているように見える。その断片同士に、関係を作ってしまうのが用言だと思う。つまり、体言と用言で構成される言葉というものは、現実とはまた別の次元に世界を作り上げてしまう。それは要するに、フィクションのことだ。もちろん、ドキュメンタリーもフィクションの一部といわれるような、広義のフィクション。
 このフィクションの世界を考える上で大事なのは、時間すら現実から切り離されているという点。もちろん、言葉を話す話者の身体は現実の時間に支配されているが、その言葉の中にいるとき、そんな時間は一気に無力化してしまう。言葉それ自体は物質だから、声なり文字なり、音なり絵なり、あるいは舞台なり映画なり、という風に何か手触りを持った形でしか存在できない。けれどそんな形式的なパッケージのみを見ているわけではなく、その中に提示された名前の連なりを見ている。
 説明のために単純化して話すからこの例えは実は間違いではあるけれど、ちょっとこんな風に考えてみる。本を読むという行為と、文字を追うという行為と、紙面を眺めるという行為は違う。紙面を眺める行為は二次元的な知覚で、文字を追うというのは、文字を紙から独立して認識する三次元的知覚で、本を読むというのは、本の中の言葉、つまり体言と用言の関連を、ある意味完結した世界の中に見出す感覚。つまりそれは、現実を支配する時間という共有すら断ち切る、四次元的な感覚とでも言えるかもしれない。

◇これをつきつめていくと、時間とはそもそも共有するものではない、という話になり、つまり個人というのは絶えず世界をフィクション化して生きている、という話になっていく。まあしかし、とはいえいいフィクションと悪いフィクションがあって、ご都合主義なだけのフィクションが面白くないというのはある。
 ご都合主義というのは、つまり倫理観の話だったりする。個人が自分の目に映った世界をフィクション化するときに、歴史というもうひとつのフィクションを全く無視するのってどうなんだ、ということ。

◇自分の身体自体は現実の次元に絡めとられている。そして、この現実を現実たらしめているものは、歴史である。歴史というフィクションが、個人のフィクションと大きく違うのは、やっぱり話者の顔がいまいちよく見えないということ。フィクションにおける話者というのは神であり、そのフィクションを支配している。歴史というフィクションは、匿名の無数の人間が語り繋いできたものだから、彼ら全体を神とするわけだけれど、しかしそういう無数の個人の視点がどんどん受け渡されていくと、人間そのものがものすごい速度で抽象化されていく。その抽象化された人間そのものを神として、歴史というフィクションが出来上がる。
 人間の抽象化には色々とあるわけだけれど、ひとつの切り口として、人間は時間でくくることができる。どんな人間も、はじまりと終わりが用意されていて、一方向にだけ動いている。そんな時間が支配者であるフィクションが、歴史である、と。

◇もう一段踏み込むと、個人のフィクションが世界の全てであると捉えるのは乏しいが、実は歴史がそれを覆うより大きなフィクションであると捉えるのも乏しいのではないか。
 世界というのは、本当に途方もなく広いので、時間という軸ですら全てを捉えることもできない。歴史で捉えられる世界は、せいぜい三次元が限度。各個人が無数に紡ぎ上げるフィクション、つまり四次元を、歴史という単一のフィクションがどんどん取りこぼして行くのは、当然のこと。
 しかし想像力の乏しいヤツは、すぐに歴史というフィクションの支配者になりたがる。歴史の最先端に立つことが、世界を支配することだと勘違いする。歴史の最先端に立つというのは、これまでの歴史にいなかったヤツになるということ、つまり唯一無二の存在になるということなわけで、人とかぶらないようにすること=「絶対」になることだと思っている。彼は、二つのことを忘れている。ひとつは歴史の支配者はただの時間であり、個人の一生ではないということを忘れており、もうひとつは歴史が数あるフィクションのひとつでしかなく、その他の、個人が紡ぐフィクションの存在を忘れてしまっている。この二つの忘れものは、要は同じ話なわけだけれど。

◇ラッパーのことと『2001年宇宙の旅』のことを書こうとしていたら、話が横に逸れまくって、異様に抽象的なエントリになってしまった。これらは、次回への宿題に。