昨夜7時。遠くで祭りのやってる音。
◇昨夜は妻と八王子祭りに。今年初めてのお祭りだったのだけれど、なんというか、非日常ではなかった。妻と居ると、ほとんど全てのものが日常の中に取り込まれていく。それは否定的な意味でも肯定的な意味でもなく、つまり夏が変わったことを意味してるんだと思う。
◇水泳から帰ってきて、会社のお中元でもらったエビスビールを飲む。そして窓を開けて部屋に風を通しながら、京王線の走る音に耳を傾ける。電車の音が聞こえる場所に住んでいてよかったなと思うのは、こういうとき。
◇ビールは一杯目が一番美味しいので、二本目はダイエーブランドの発泡酒でも全然構わない。
◇やけのはら『THIS NIGHT IS STILL YOUNG』。サマーアンセムっていうと、夏に聞きたい一曲って印象が強いけど、このアルバムはそういう意味以上のサマーアンセム。夏を描き出す。「夏」がイメージさせるあれやこれやがアルバム全体を形作っているような気がする。この曲聴いてアゲてこうぜ、みたいな感じとはちょっと違って、今感じた感覚を季節に当てはめると「夏」という言葉が浮かんできた、みたいな。
◇このアルバムを聴きながら、いくつか考えたいことが浮かんできたので、以下にメモ。
◇『自己嫌悪』。キミドリのカバー。
やけのはら:キミドリが単純に好きだったっていうのはまずあるんですけど、歌詞的にカバーしやすかったんです。ラップの途中で<オレスチャアニ>とかあったらカバーできないじゃないですか(笑)。歌詞の書き方がいい意味でラップっぽくない、他の人が歌っても成立するなっていうのは気づいてたんで、カバーしようと思ったんですけど。
シャイなラッパー「やけのはら」の軌跡 ーCINRA.NET
オリジナルであるキミドリのそれには、『今夜はブギーバック』*1にも通じる「今を過去と捉える」感覚があったと思う。『酒と泪と男と女』の一節を引き、酔いどれて合唱するとき、「時々自分が不安になる」現在が、奇妙にノスタルジックに響いてくる。
やけのはらはこの酔いどれ合唱部分をばっさり落として、ラップにボイスエフェクトをかけている。なぜやけのはらが『自己嫌悪』をカバーしたのかはわからないけれど、僕はこのカバーに、「今を過去と捉える」のではない、違った感情を想起させられる。それについては目下考え中だけれども、少なくとも「今を過去と捉える」のとは似てるけど異なった形で「今」と向き合っているような気はする。
◇『ロックとロール』。一番好き。
ロックとの出会いを恋に例えるものはよくある。けれどこれは、ロックくんとロールちゃんの運命的なボーイ・ミーツ・ガールストーリー。ロックに想いを寄せるのではなく、ロックとロールが高揚して夏の日に溶けていく様が、少年の心に火をつける。これは確かに、DJの視点なのかもしれない。
以前ローズレコーズのコンピに入っていたのには「yasterize mix」とあり、今回のはそれにギターソロ的なシンセ音を加えている。このシンセ音は、その直前の歌詞「君の声が聞きたい」に呼応しているものだと思う。ロックとロールの恋が奏でるメロディ。
僕はDJのことはよくわからないけれど、DJはやっぱりラッパーとかバンドマンとかと少し違う姿勢を持っているのかもしれない。音楽の当事者性みたいなものに対して。「この音楽は俺のものだ」というのも、「いや、どの音楽も文脈から外れて考えることはできないから、この音楽を自分のものと言えない」というのも、それは音楽に関わる際の気概のあり方の違いでしかない。しかしDJというのは、どうしてもこの二つの姿勢について意識的であらざるを得ない、ということなのかもしれない。
◇『DAY DREAMING』。
以前casper the ghost名義で出されたものが、暇な昼下がりにあーでもないこーでもないと見る夢であったならば、今回のアルバムは都会の喧噪を逃れて夕涼み、あるいは野外パーティの途中で少し離れて一休みしながら見る夢のような。つまりいずれにせよ、前回よりも周囲の人の気配が強く感じられる。
ここでもアーバンソウルっぽいというか、オルガンソロやギターソロが絡んで来て、このあたり、ソロパート的なものをやけのはらがどういうイメージで扱っているのかが気になる。
◇しかしやっぱり、僕が感じるやけのはらの最大の魅力は、そのラップが喚起させる豊穣なイメージ。
僕がhiphop面白いなあと思うのは、二つ以上のものを組み合わせたとき、それらが単独に存在しているときには隠れて見えなかったイメージが一気に噴出する、というのを意識的にやっているところだ。それはラップとトラックの関係に象徴的に顕われている。
ラップっていうパートの中だけでもそれは常に行われていて、例えば歌詞カードでリリックだけ読んでも浮かばなかったイメージが、ラップされたときにはじめて浮かび上がるっていう風に、書かれたものと声に出すものっていう二つの異なる要素がある。そしてさらにいえば、そのリリックを書くということ自体、複数の異なるイメージを孕む「ことば」を扱うことだったりする。
僕はやけのはらのDJやトラックメイキングの優れてるところを充分把握しているとは言えないけれど、少なくともラップ部分だけ注目してみても、そのイメージを操るのがとんでもなく優れていると思う。
今回あらためてやけのはらのラップを聴きながら、hiphop的なイメージミックスの仕方を考えたりできた。二つ以上のイメージをただポンと置くだけでは当然ダメなわけで、その二つの間にある距離をどうするかが問題なのだと思う。その距離をどういう「ことば」で提示していくか、つまり二者の関係性を定義していくことによって、膨らみ方が全然違ってくる。
黄金色にくすんだ 古く新しいフューチャー・デイズ
生温く新鮮な風がまた吹くだけ
幾つ夜を越えてもまだここは通過点
ギリギリで豪快に場外にうっちゃれ
空中旋回するヘリコプターに 思い切り
振った その手の放物線
成仏できない音の本音を追って
風船が昇って行く更に向こうへ
一瞬体が震えて 何か外れて
ずれて 擦れて 全て忘れて
地図に載ってない歪み
確かめに行こうぜ カラクリ
目印はのび太の飛ばした その紙飛行機
俺たちは1つになんてなれないから
同じ夢を見るバラバラなまま
凸凹の荒野で妖怪達と
いっそ このまま ずっと大運動会
こんなこと、そういうことばの本質みたいなものを感じていなければできない。
◇それから、単純に僕はやけのはらの感受性が好みだ。
リア充感が蔓延してるのに、ルサンチマンをくすぐられないのは、多分自分なりのこれができると思えるからだ。女の子ときゃっきゃやってるシーンが延々続くにも関わらず、このPVが切り取っているのは実はそんな具体的な出来事じゃない。きゃっきゃやってること自体が楽しいのではなく、きゃっきゃさせるような夏そのものに“アテられてる”ってことだと思う。ちなみに僕の場合、最も“クる”シーンは冒頭付近に出てくる「夏の青空に鍛高譚」だったり。
◇僕は、クーラーがきらいな妻と居るうちに異様に暑さに強くなってしまって、熱帯夜といわれても、風を通すだけでぜんぜん過ごせてしまう。八王子の僕らの部屋にはクーラーはないが、汗をかいて風に当たれば全然平気になってしまっている。
僕の夏は明らかに変わってきているのかもしれない。