web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前10時。トタンを鳴らす風、冷蔵庫の音、洟をすする妻。

◇DKに置いた椅子に座っていると、隣の寝室と屋外の風の音が同じくらいの音量で聞こえる。クリスマスの朝。

◇金曜の夜、クリスマス・イヴのレイトショーで、妻と一緒に『ノルウェイの森』を観てきた。妻は途中、寝てた。
 仕事が終わった足で待ち合わせ、サラダバー&カレーライスお替わり自由のハンバーグステーキレストランに。さすがイヴの日らしく、こういう安くてがっつり食べられるところは、僕らのようにあまりお金のない若いカップルや男子高校生4人組などで賑わっていた。その雰囲気にはしゃいでしまって、ちょっと食べ過ぎた。食べ放題とか、テンションあがる。
 すっかり気分をよくした僕は、レストランを出て映画館に行く道すがら、適当に鼻歌を歌っていた。おっさんが銭湯で歌ってそうな音階で、こ〜こがど〜こだ〜かわかりゃせん〜、ふかくてで〜かいあながある〜、おちてもだあれもきがつきゃせん〜、ほれノルウェイノルウェイ、とやっていると、珍しく妻もニコニコして聞いている。歌のトーンも我ながら気に入ったし、喜ぶだろうとしつこく歌い続けていたら、だんだん妻が苛々してくるのがわかった。すぐやめた。

◇トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』。小説は高校時代に読んだけれど、どういうお話だかよくわからなかったし、つまり内容をほとんど覚えていない。なので読み返しておこうかなと一瞬迷ったけれど、結局やめた。というわけで、映画を観ることで、僕ははじめてこれがどういう作品なのかがわかったのだった。そういう状態で、思いつくまま感想を書きなぐる。

◇要するに、これは「誰かの代わり」の話なのだ。言うまでもなく、主人公ワタナベは直子にとって、自殺した恋人キズキの代わり。でもそれって普通に考えてもめちゃくちゃ残酷なわけで、それによって直子を現実から遊離させている。つまり直子は、今を今として生きられない。これが、この物語独特のここではないどこかっていう舞台で語られるわけだった。それは映画においてもしっかり守られている。
 さて、まず直子について。うろ覚えの原作の直子描写として、おっぱいが彫刻のように美しい、これは勃起するとかそういういやらしい見方ではないみたいなのがあった気がしたので、透明感のある絶世の美女というイメージを当てはめていた。だから菊地凛子が直子役と聞いてちょっと違和感を覚えたのだけれども、いやしかし、これがとんでもなかった。イメージが崩されるとかそういうレベルじゃなくて、とにかくもの凄いヤバい直子が居た。菊地凛子は、直子というよりも、菊地凛子だった。国破れて山河ありって言葉があるけれども、そのときの山河に相当するのが菊地凛子。山、川、凛子。山や川のシーンにこの世のものとは思えない女が映っている。つまり、幽霊や怪物といった類いの直子だった。
 僕がこの映画にのめり込みだしたのは、療養所近くの山で、直子がワタナベとのセックスに言及するシーンから。愛してる愛してないとは全く無関係に濡れたり濡れなかったりすることに混乱してしまった直子は、奇声をあげながら背の高い草を踏み倒し山に分け入っていく。分け入っても分け入っても青い山、って具合に。

このとき、彼女はほとんど自然現象と同じ。論理や理性ではなく、生理(現象)だけがある。国破れて山河あり。多分、直子ってこういう人なんだろうという感じですごく納得できた。原作よりも直子っぽい。ちなみに、あんま関係ないけど村上春樹恐妻家説も頷ける気がした。原作から想起される直子のイメージが美人になっちゃう時点で。

◇あと、死体となった直子の足と、新たに人生を歩み始めるレイコの足の対比はすごく良かった。21歳のまま時間を止めた足は寒々しく痛々しいが、これから自分の時間を生きて経年変化していくだろう足は暖かく、地に足がついた状態で映される。喪った人の代わりをする、あるいは代わりを求めるというのは、喪失自体を覆い隠すことでしかない。結局、今を今として生きることができなくなり、時間を止めて過去の中に留まろうとしてしまう。

◇そして、結構好きだったのはワタナベが放浪するところ。海辺の波しぶきやら松ケンの唾液やらが、なんだか、たまに『2001年宇宙の旅』のスターゲイトのシーンに見えたりした。
(4分辺りから)
要は、精子からやり直せ!みたいに見えたのだった。そういえば直子とは、最初の一度以外、射精は全てハンドかブロウのジョブだけだったし、着床の可能性はなかった。何か行き場を喪った精子のように、ワタナベは干潮時と思しき海辺(胎内)で泣く。
 ところで、今いきなり思ったのだけれども、直子はセックスにトライするけれど、あれは何を求めていたんだろう。もう一度セックスに成功していれば、それは再生にもなり得たかもしれない。セックス=妊娠の可能性=身体から今を捉える、という風に。でもとりあえず直子のそのときの欲望は、最初から最期までワタナベにキズキの影を見ていた、という解釈だった。これは原作でも映画でもそうだったんじゃないかと思う。でも、本当はどうなんだろうね。直子のような人は、どうなんだろう。キズキでもワタナベでもなくて、純粋な性欲って線も実はあり得るんじゃないかなあ。
 閑話休題。一方、ワタナベと同様に直子の死を抱えたレイコもちゃんと描かれていると思った。彼女がセックスを求めたのは、直子のそれとは微妙に違っていて、再生への自覚的な意志があったから。面白かったのは、ワタナベの方にはセックスはそれほど必要ないように思えていたこと。何度も何度も本当にやるの?と聞いて、あんまり乗り気じゃなさそう。まあ旅に出てすっきりしたって心境だったのかもしれない。つまり、あそこでレイコと交わったのは、ワタナベにしてみれば単に優しさである、と。しかし、ワタナベ視点から離れて観てみると、あれは、再生への意志の確認のように見えてくる。直子のときと同じ行動をしても、決して同じ結果には陥らないということの確認。あのセックスがなかったら困ったのは、実はワタナベの方だったんじゃないか。あれがなかったら、ミドリに連絡していないんじゃないのか。そういうことを考える余地がきちんと残されていた。

◇ただ、ちょっとだけケチをつけると、全体的に情報量が多めなので、こちらの考える余白が欲しかった。表情や仕草から心情を読もうとしているときに、音楽がちょっと耳障りなこともあったし、ワタナベの語りを聞き逃してしまったりした。あとは乳首死守と前貼り感バリバリのファックシーン。せっかく菊地凛子は脱げるのに、なんでそういう風にしたのか。ただただ悔やまれるばかり。

◇とはいえ、なんといっても直子っていう恐ろしい女が堪能できた時点で、僕はすごく満足したのでした。

◇私的日本語ラップ史をメモ。ソウルスクリームからニトロまでが、日本語ラップのフローについて関心持ってた時期。んで、次にスチャ『彼方からの手紙』にびっくりして、リリックの中身に注目し始める。実は、これはseedaやnorikiyo、BESに直結する。それから、日本語ラップ云々は置いといてもびっくりしたのが、アルファベッツ『今夜殺せ』とマッカチン『chin attack』。んで、今ちょっと川本真琴がキテる。

日本語ラップをいくつかの側面から聞く耳が出来上がってきて、川本真琴の歌が聞けるようになってきたみたい。すごいな、川本真琴

◇さっき、ホットケーキを食べた。多分家で作るホットケーキって、学生時代、妻と付き合い出してから初めて食べた気がする。今日ははじめて僕が作ってみたんだけど、本当に簡単でびっくり。素朴でおいしいもんだねえ。