午前10時。給油の景色。
◇冬の家事では、ベランダでの給油作業が一番好き。ダウンジャケットを羽織って、窓から外へ出る。灯油のにおいを嗅ぎながら、部屋の中では妻と息子がけらけらと笑い合っている。
◇年末年始は妻の実家で。紅白の途中で眠くなり、全員0時を待たずに就寝。
考えてみれば当然のことだけれど、祖父母が居る環境は子育てに向いている。普段暮らしている分にはあまりわからないものだが、ほんの数分程度、誰かに赤ん坊の抱っこをお願いできる状況に置かれるということが、これほど気持ちを軽やかにするものかと驚いたりする。核家族という構成は、本当に油断の許されない毎日を余儀なくされている。子育てに限ったことではなく、基本的に一人暮らしであろうと夫婦ふたりの暮らしであろうと、それは物理的に外界から断絶された存在なのである。そういったことを、子供という存在がもろに浮き彫りにしていく。
◇はてなブログ(http://andoh3.hatenablog.com/)の方に移行するか検討中。はてなダイアリーの方からそのまま移行できるプランが用意されるのを待つかもしれないけれど。
◇ラップを考えていくうえでどうしても避けて通れない話題のひとつとして。
事後的にこの時自分がやろうとしていたことを振り返ると、言葉の持つ詩的浸透力と切断力を、文学に接近することなく音楽に適用しようとした、といえるかもしれない。(鈴木治行『イマジナリア(1)』アルテスvol.01所収)
あるリリックを読むだけで評価できるとき、それは優れた散文の評価ではあっても、ラップの評価ではない。ラップは紛れもなく歌であり、言葉に物理的な質量を持たせている。つまり、重力や時間という物理法則からの制限を受ける。もちろん、紙に書かれ、黙読を前提とした文章であってもそれは同様なのではあるが、しかし文学作品とは、そういった制限を課さないことをさしあたりの前提条件にしているように思える。小説家自身は締め切りや枚数など様々な制約を受ける身体を持っているが、作品はそうした作家の物理的な身体からなるたけ切り離して考えられようとしている。作品のヴォリュームは、物理的な制限から自由であり、言葉の配置や物語の展開のみを存分に問題にできるのである(おそらく文学と印刷文化は、きっとそういう意味で全く歩みを揃える。“書”になってはいけない)。作品の終わりは、ページ数ではなく、語りの収まり方によってのみ決定される。
発話、それも音楽に乗る言葉の場合はそういうわけにはいかない。言葉は物質化することで、シラブルや発話者の声という物理的な条件を備えるようになる。ここでようやく、言葉はひとつの音楽を奏でるための楽器になるわけだが、しかしこの楽器は非常に気難しい。人の声というもの自体が既に情報量が多いと思うのだが、それに加えてこの楽器を難しくさせるのは、いうまでもなく言葉である。言葉それ自体に意味やイメージという非物質的なものが付着しており、それを連ねることによって、律動・旋律・和声・音響などによって紡がれた時間とは別の、異なる時間感覚を用意してしまう可能性を孕む。それを野放しにしていると、リリックはすぐさま音楽から自律しようとし、文学への接近を始める。
文学に接近せず、音楽に言葉の詩的浸透力と切断力を適用しようとする場合を考えるとき、重要になってくるのはおそらく沈黙という概念ではないかと思う。沈黙を聴くという行為は、言葉が物質化しない限り不可能だからだ。つまり沈黙という現象をどのように捉え、表現するかを見れば、それがそのまま音楽と文学における違いとしてはっきり浮かび上がるのではないだろうか。そんなことを考えつつ、やっぱりジョン・ケージとか読んでみるべきなのかと思ったりする。
◇日常的な話し言葉に接近させるように歌うラップは、日常生活の社会性をそのまま音楽の一要素として紛れ込ませる。もしくは、日常的な話し言葉に音楽という要素を潜り込ませる。いわゆるミュージシャンとも少し違った気配を纏うラッパーという人々は、音を操るシャーマンというよりも、ワークソングを口ずさみながら労働する生活者といった趣きの方が強い気がしている。
◇佐々木敦『未知との遭遇』。「最強の運命論」というのをぼんやりと考えつつ。
運命というと、それを心理的に受け入れるか拒絶するかの選択を常にせねばならないような印象があるけれど、実はちょっと違うかもしれない。波のように押し寄せる運命に対して、面と向かって対峙するのではなくて、こちらの身体の角度を調整しつつ、乗りこなしていくべきものなのだろうと思う。
乗りこなした結果、このままいけば絶対岸壁にぶち当って死ぬという状況はある。しかしそれもまた運命である、とするのが「最強の運命論」と思ったのだけれども。
◇古谷実の『ヒミズ』と『シガテラ』は、同じことを対照的な角度から語った作品だと思っていて、結論も全く同じだと思っている。両作品のラストを比較して、『ヒミズ』を絶望、『シガテラ』を希望とするような読解は可能かもしれないが、やはり僕はそうではないと思う。どちらも、等しく希望の話だ。
運命があらかじめ決まっているものだったとして、どのような態度を取るべきか。想像を絶する最悪の出来事がいずれ必ず起きるとしたら、そしてそれはそうなる運命なので、あらゆる手段を講じてもそれを拒否できないとしたら、無力感に陥ってしまうかもしれない。だが『シガテラ』は、ここに「不幸になる直前までがんばる」という覚悟を表明する。不幸や幸福というのはある一点のみを指し示す状態に過ぎないが、絶望や希望は時間的スパンを伴う姿勢である。つまりこの宣言において試みられているのは、不幸と絶望に区別をつけて捉えなおすということであった。主人公荻野の「不幸」はついに実際に訪れるが、しかし荻野は死なずに生きている。自分の自覚的な態度によって、不幸の意味を変えていく。
『ヒミズ』も全く同様である、と言うと少し違和感を覚えるかもしれない。しかし「決まっている」ことが宣言された後、主人公住田は紛れもなく「悪いヤツ」を殺したのだと考えてみる。そこには『シガテラ』における「がんばる」にも通じるポジティヴな姿勢があったのではないだろうか。「決まってるんだ」というバケモノの囁きは、普通の生活を手に入れられないという宣告なのではなく、普通か否かというこちらの価値判断とは全く無縁なところで、ただどうしようもなくそうなのだと語るのみである。それは住田にとって、必ずしも絶望を与えるものではない。その声はむしろ、ある種の自由をもたらす希望に満ちていたのではないだろうか。彼は彼でしかあり得ず、限り有る存在である。その指摘にうなずくことで、住田は他律的な判断に依らず、自身の運命を積極的に認めることができる。普通か否かを気にすることなく、自分の生を全うすること。社会的なつぐないの儀式を持って終わりとすることなく、自身の判断によって行動を清算すること。
これは単に自分の決めたルールのなかに自閉することとは異なる。ただそうなるしかないのだという囁きにうなずきながら、その一方で死の意味を読み替えることである。死は恒常的な現在である。が故に、今現在進行形で生きている者にとっては、希望の時間の終わりを告げる不幸であるか、あるいは反対に絶望の時間の終わりを告げる幸福であるかのどちらかに見える。しかし、それはどちらも死に対する消極的な享受でしかない。自分の自覚的な態度によって、不幸の意味を変えていく。多義的な死を幸福か不幸かのどちらかに分類するより先に、そこに向けた積極的な時間の持続を図る。住田の人生は、最後に取り戻されたのではないだろうか。
◇『ヒミズ』は連載終了後、単行本にまとめられる途中でラストページの差し替えが行われおり、住田の恋人である茶沢の「なにそれ?」という台詞がまるごとカットされている。これにはまず、蛇足の一言を取り除くという理由が挙げられるだろうが、それが蛇足であるという根拠のひとつに、僕の勝手な推測だが、住田の行動を単純な否定に晒されないような配慮が見て取れるような気がする。
◇今年もよろしくお願いいたします。