午後9時。蝉も泣き止む。
◇涼しくて強い風で、肌寒さすらある。
◇今週末は台風もあって、外出らしい外出も特にしなかった。土曜に最寄り駅裏の百円ショップまでボールを買いに行ったのと、その夜に妻の実家に行ったのくらい。途中、ご近所のおじいさんやおばあさんに会って、挨拶をした。人見知りの息子は、普段挨拶の言葉を言えず、無言&真顔で手を振ったりタッチをするのだが、この日はついに、小声ながら満面の笑顔で「こんにちわ」と言った。父は思わず、聴こえました?と相手に言う。
土曜夜の妻の実家、夕食前に、息子と電子ピアノで遊んでいた。大抵、私がピアノを弾くと、息子は膝をよじ上って邪魔をしてくるのだけど、この日はなぜかやたらと積極的に私にピアノを勧めてくる。『夢路より』を弾いていたときだと思うが、突然、それは汽車ぽっぽの歌である、と断言。そうですかと相槌を打ってから、次に適当にコード弾きをしていると、大人しく耳を傾けてから、それはなんの歌か、と尋ねてくる。先ほどが汽車ぽっぽの歌だったので、飛行機の歌だ、と答えると、じゃあその次は「これ」の歌を弾いてくれ、とリクエストまでもらった。「これ」と言いながら息子が手に持っていたのは何かのペンのキャップで、大喜利のお題をもらったような、もしくはなんだかコンテンポラリーな気分になった。
日曜日は風も雨足も強く、一日中家に居た。珍しくちょっとした整理整頓までしてしまう。コンポから流れる音楽を流しっぱなしにしていたら、こちらについても、息子は踊りながら曲名を知りたがる。
家がちょっと片付いてきたころ、雨風の合間を塗って、義父母がわざわざ届け物に来てくれた。歓迎の意を込めてか、息子は祖母のつきそいでトイレおしっこを披露していた。おしっこ名人になってもう10日になる、と妻が教えてくれた。
◇もう随分前になるけれど、小保方女史の会見を観たコラムニストが、実力に対して「虚力」という言葉を持ち出していた。実力が本人の身となった力だとしたら、虚力とは、本人の力ではない、他の誰かの力を引き出すような、ある種のマネジメント能力のようなものなのだという。意訳はあるが、概ねこれで合ってるだろう。
さて、この実力と虚力がわかりやすく運用されているのが、芸人の世界じゃないだろうか。噺家のそれでもいいけど、おそらく漫才コンビの方がかなり象徴的に役割分担をしている場合が多かったりすると思うのだが、さておき、虚力は、自分たちのステージを用意するために最も必要とされる能力であって、いくら実力があっても、ステージを用意するための政治的振る舞いができなければ、表現の場すら与えられない。あるいはまた、虚力に秀でてしまって、実力以上のステージを獲得してしまっても、それに間に合わせるように中身を埋めていく、という場合もあって、実力と虚力は、いわば料理と器のような関係と言っても良いかもしれない。この、虚力なるものは、旨い料理を作ることにだけ専念すればよく、皿もカトラリーもクロスも沢山持っていて、料理をどうお膳立てするかまで気を配る必要のない者には、ほとんど要らない能力かもしれない。ちなみに、そういう人間が実力至上主義を唱えるときには、彼らの置かれた立場に反省があるかどうか、常に気を配って置く必要がある。しかしコンペティション性の強い文化の場合、皿をどのように手配するかというところも評価のうちに入って来る傾向があり、つまり虚力とは、ある種のマイノリティが、ステージ確保のために必要とする能力だったりもする。芸人とラッパーはこちらに近いと思う。
◇スポーツだって、虚力と実力が不可分に絡み合っているものはたくさんあるように見える。
虚力を用いて、本流以外のステージを作っていくうちに、いつしか本流のステージで「実力」をいかんなく発揮できてしまう、みたいな。そういう意味では、ショウアップされたものは、もう虚力と実力を選り分けることが難しくなる。
◇ショウアップに耐え得るだけの準備がないと、かなり悲惨な出来事も起こるだろう。