web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

平日紀3

(つづき)
 マキはファミマで缶コーヒーを買ってから、成人雑誌コーナーの前に立って表紙を眺める。ケイタとオレはシュミーズ一枚の老婆の昔話を聞く。ここは一体どこだろうか。3人はどうでもいいことだと思った。どうやってきたのかは、3人ともしっかりと忘れていたからだ*1。3人は、なんだかすべてわかっていたのだった。老婆のストリップを眺めて、ぶらぶらして、旅館に戻って、明日の夜頃だらだらと帰る。そして3人の温泉旅行は終わる。オレは終わらない就活をだらだら続ける。ケイタはまた勉強する。マキの次のデートは週を明けてすぐ、火曜だ。
 ルークは童貞だろうか。マキはコンビニ袋をぶら下げながら思った。ルークは、俺の知る限りでは童貞だ。だがしかしコイツは二歳の夏と五歳のお正月過ぎと七歳の春頃に家出をしている。そのときは大体二日ばかり行方不明になり、近所のおじさんが首輪も抜けているでかいルークを抱えてきてくれたのだ。多分そのときに、どこかのメス犬としっぽりやってきたんだろう。アウトローを気取って。ホントは初めてだったクセに。俺はもうすぐ童貞を、捨てる。オレは、マキの飼い犬が童貞のまま死ぬことを哀れに思った。マキの周りに童貞がいなくなっていく最中、唯一彼を裏切らなかったのはルークだったからだ。多分、お前より先にやってたんだろうな。ケイタが笑う。
 膣でたこ糸を引っ張って、糸を結んだ缶のプルタブを開け、老婆はそのままスチール缶からタブを引き剥がしてみせる。3人はプルタブの部分が裂けてなくなっている缶コーヒーを啜り、なぜかたこ糸のついたプルタブをもらった。「お守りだからとっときなさい」。マキお守りだってよ。ね、思い出になるでしょう。ですね。これはいい思い出になってますね。最後に3人は歌を歌い、老婆は膣に構えた笛でストイックにリズムを刻んだ。
 シャッター商店街の夜は静かだった。3人は缶をファミマに捨て、まだ時間が午後十時なのを確認した。海からの風が寒く、遠くの国道を時折車が走る。深い青と黒で統一された夜に、3人の足音や声が響いていた。なんであれをお姉さんと呼ばなきゃならないんだろうね。俺さっきコーヒー買いに行ったときコンビニのお姉さんに手握られたよ。あ、おつり返すときの?そう。あれいいよね。ね。あれがおねえさんだよね。酔いの醒める気配のないオレはあんまり歩いている感覚がなかった。
 机の上にあった鉄製のものさしを掴み、出て行け出て行けと唱えながら母親が追いかけてくる。学校が長い休みに入るたびに、こんなことをしている。自室に逃げ込もうとする俺は、階段を上がる途中で右の耳のうしろに攻撃を受けた。母の怒りを買う発言をしてしまったことをいまさら悔いても遅いのであった。しかし、と俺は思う。夏祭りの日に家を追い出されるのは落ち着かない。夜を明かす場所の心配は、できるだけしたくない。自室に逃げ込んだ俺は、洋服箪笥を移動させてドアを塞いでいることに気がつく。よくこんな重いものを。恐怖に駆られながら洋服箪笥を抱えて移動させている自分の必死の表情を想像すると、笑いがこみあげてくる。パニックでひいとかわあとか叫んでたかもしれない。俺はひとり声を殺して腹を抱える。母親が部屋の外で俺に怒りの言葉を投げつけている。しかしだが困るのだ。夏祭りにはいつもの仲間が来るだろうし、それに何よりはらださんが来るはずだ。はらださん。母の怒りは、いつのまにか自分の肉親や兄弟への呪詛、夫の無理解への呪詛に変わり、そして自己の孤独を訴えながら泣くにいたる。俺はこのままではいけないと思った。はらださんの浴衣姿を想像する。このままでは今日の夏祭りにいけない。俺は二階の部屋から外へ脱出する方法を考える。母親の声の向こうに、遠くの太鼓が聞こえた気がした。
 3人は、ことばを面倒臭く感じていた。川沿いにある小さな噴水からはお湯が噴き出し、ケイタは手についたお湯をマキに飛ばす。マキがやり返そうと噴水に近づくと少し強い風が吹いて、3人とも肩をすくませた。すれ違う人がいない。
 マキは薬局で購入したローションを手に、彼女と待ち合わせている池袋に向かう。老婆にローションといっても、「いや、ローションじゃなくてゼリー」「ピンク色の箱のゼリー」と連呼されたのは、老婆の思い浮かべるローションがベビーローションの類だったからだ。あの老婆の中で、時間は止まっているのだろう。あるいはあのストリップ小屋の中の時間が止まっているのだろう。いやあ、こないだ僕はじめて彼女とセックスする機会に恵まれまして。ああそうなの恋人かい?あ、はい彼女です。こいつ童貞なんですよ。ああそうなの。で、彼女が緊張してて、うまく入らなかったんですよ。女もはじめてかい。そうですそうなんです。そりゃ女ははじめての時は緊張するからね、仕方ないよ。彼女を落ち着かせるにはどうやったらいいんですかね?ゼリーだね。え?ゼリー使えば入るよ。わかる?ゼリー。薬局に売ってるから。「もうさ、あのくらいのトシになると、もうすごく無駄がないよね」「あんまり驚いたりとか笑ったりとかなさそうだしな」。ケイタとオレの会話に思い出し笑いしながら、マキは彼女に老婆の話をして、ゼリーを使って挿入した。
(つづく)

*1:引用元:細野晴臣『恋は桃色』