午後9時。絵札を睨んで秒針の音。
◇トランプを買ってから、セブンブリッジブームが巻き起こっているのは前にも書いた気がするけれど、もう本当に毎日やっている。テレビやネットの時間が減り、その時間は妻と勝負の時間に変わった。手の内を見せず、意図的に秘密を作り合うことそのものを楽しむところに、僕と妻が別々の人間であることをあらためて感じたりする。勝負をすることで、妻と僕の切断面が突然立ち上がる。
◇少し喉が痛くて、今日は日曜日にも関わらず酒を呑んでいない。水泳も行かなかった。といってもこれは別に風邪とは関係がなくて、市民プールが二週間の間、換水のためにお休みになるからだ。こないだの木曜日がお休み前の最後の営業だったので、50分2000メートル泳いでおいた。でもさすがに二週間まるまる全く泳がないのは不安なので、来週末にでも妻の実家付近のプールに行こうかと思っている。こちらは2時間300円という単位なのだそうだ。
◇丸山圭三郎『言葉と無意識』。勉強中。
◇論理と生理を分けて生活しようと思っても、それはなかなかできるものではない。というか、本質的に不可能なんだろう。ラップが音の連鎖と意味の連鎖を並行させていく様子に聞き入っていると、時々そんなことを思ったりする。
物事を分類して認識するということで言葉は論理世界を作りだすというわけだけれども、その言葉の連鎖のさせ方によっては物事を分類している境界線が歪む、あるいは消失することすらあるかもしれない。一般的に論理的な言葉というのは意味の連鎖が起こっている様子をいうのだろうが、では例えばラップにおける押韻のように音の連鎖、口の開き方や息の吐き方に依拠するものは生理的な言葉だろう。これは別に全く別モノではなくて、言葉という同じモノを違う角度から見た結果でしかない。音の整合性を優先させた文章を聞くと、意味としては違和感のあるものを聞いたりするわけだが、このときに強く意識するのは、その言葉の手触りだ。意味の整合性の取れた文章の中では埋もれてしまう言葉の手触りが露になる。整合性というのはつまりパズルのピースのようにぴったりとなめらかに収まることなわけで、手触りを認識できるというのは、本来あるべき境界からはみ出てピースとして噛み合わずに出っ張っているということだ。そして、よく考えてみるべきなのは、それはそもそもパズルとして観るべきなのだろうか、というところだったりするのだろう。
◇まとまってないけど眠いので寝る。