web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

正午。夏に備えた丸刈りの校庭の樹の緑色。

◇朝食を摂り、トランプをしてから散歩に出る。小学校の樹が丸く刈り整えられているのを観た妻が、坊主頭のようだと笑った。五月の到来を感じさせるような空気が気持ちいい。この小学校は、災害の際には避難所になる。

◇図書館に行って雑誌を読んでから、CDとDVDを借りた。DVDは当初『サタデーナイト・フィーバー』を借りるつもりだったのだが、ちょっと迷って棚に戻した隙になくなってしまった。かわりに『めまい』を借りた。

◇平日、『魔法少女まどか☆マギカ』を二日かけて観た。エヴァウテナも観てないくらいテレビアニメを知らないのだが、絵の手触りの違いを使って異界を表現する手法は、いつぐらいから始まったのだろう。以前『電脳コイル』を観たときにすごく驚いたけれど、もうこういった表現は当たり前になっているのか!
 84年生まれの僕は、当然セーラームーン旋風を知っている。彼女らが一種の人身御供であるというのは言われてみればその通りだが、その過程を丹念に追うことであらためて彼女らに憧憬の念を抱かせるこのお話は、とても誠実だった。一歩間違えば、愛や友情や正義という大文字を、年端もゆかぬ少女たちに背負わせる罪悪感を正当化するものになっていたんだろう。
 ところで、これもよくわからないところなんだけれども、ベタにハイコンテクストであることを主張するのは、一種の皮肉なのか。西欧絵画などの巨大な記号を、ある意味“野暮”に提示する一方で、日本のオタク的モチーフを踏襲したりしているようだけれど、それらが有効に機能してるのかどうかは、僕には正直よくわからない。単純に、細部を意図的に「読みどころ」として提示しようとするあまり、違和感が出過ぎてしまっているのは、やっぱりちょっとおかしな感じがした。

ソフィア・コッポラ『SOMEWHERE』が東北新社50周年記念作品であることを思い出し、再び怒りがぶり返した。この作品はイタリアの陽気なテンションを鼻で笑いながら自己憐憫にひたりまくるいい気なバカ親父を描いたけれど、かつて東北新社は『ねむれナイト♥コルポ・グロッソ』というイタリアの陽気なお色気番組を日本語吹き替えしてるんだぞ。まったく。

◇『トイ・ストーリー3』は、『まどマギ』や『電脳コイル』とは打って変わって、人間の世界とおもちゃの世界を明確に線引きしないで描く。おもちゃはおもちゃのまま命を与えられ、思考し、行動する。その上で徹底的におもちゃの視点に立つことで、持ち主の少年の成長物語まで投射してしまうのだが、これが泣かないでいられるわけがない。
 それにしてもすごかったのは、やっぱりゴミ収集場の猛る炎とクレーンの神々しさ。この映画がなければ、ゴミ収集場のあんな表情を観ることは一生なかったはず。

◇さて、そろそろ『アラザル』の原稿をどんどん進めなくちゃならない。佐々木中のいうテクストの読み替えとは、別に具体的な聖典の読み替えを言っているわけではない。革命は、ひとりの人間のなかで常に起きている。そんなことを考えながら、書いている。