午後1時。ビールの缶の文字を読む。
◇昼食後、てきぱきと動き回る妻の横で、机の上に一本だけ残ったビールの缶。「洗い物はするから置いといてね〜」と言いつつだらしなく寝そべって、開け放した窓から電車の音と鳥のさえずりを聴く。七月最初の休日、水泳後の昼下がり。
◇水泳は40分1500メートル。喘息の発作は出ていないが、運動すると空気の通りが少し悪いようで、思うように泳げなかった。先週末に呼吸器科にかかって薬は吸引していたけれど、まだ気道が元通りになっていないのかもしれない。夏が来たような気がするけれど、体の方はまだ季節の変わり目を感じているらしい。
◇昨日は、会社帰りに待ち合わせて妻と映画。『super8』を観てきた。
『未知との遭遇』を観た直後だったせいもあるし、そうでなくとも実際、意図的にわかりやすく示している面もあるんだろうけれど、細かいシーンの端々から、確かに引き合いに出して語られている映画を感じさせる。全く嫌味を感じさせないという時点で、否応無しに好感度は高くなる。それらの作品への敬意を明確にして同じ地平に立ち、斜に構えて一方的な勝利宣言をするのではなく、自分に血肉化した表現に依った上で映り込む何かを撮ろうという姿勢。
『E.T.』が不在の父親としての宇宙人を描いたのだとしたら、『super8』のそれは不在の母親だろう。とはいえ、それは宇宙人として描かれた存在それ自体ではなく、作品全体に漂い続ける青い光(「ハレーション」でいいのかな?)の方である。超常現象の兆候を感覚させながら、幼い日に涙の溜まった目に映った街灯のようでもあり、そして何より、それはカメラを介すことによって顕われる。不在の母親は再生したフィルムの中にしか存在せず、またカメラを回すたびに不在の母親が偏在するのである。
また、この青い光が主人公だけでなく、仲間の少年たちにとってどのような意味を持つかについても考えてみる必要があるだろう。不在の母親の影、青い光は、ヒロインを演じる少女への期待であり、つまり恋心でもあり、やがて映画の欲望に昇華していく。例えば恋に破れる監督の少年は、しかし映画の中でなら首筋にキスをしてもらえるし、探偵を演じる少年は、実際にはゲロばかり吐いて頼りにならないが、8ミリ映画の中では実に堂々とした演技で精悍な佇まいさえ見せる。その一方では映画制作から降りる少年も居るわけで、この辺りの距離感はとても生々しい。そのなかで特に注目させられるのは、ゾンビ役を演じる火薬少年の存在である。彼が最も危険な状況に最後まで立ち会うのは、火花というもうひとつの光の魅力を知っているからではないだろうか。映画と、銃や爆弾などの火器は、光を発するという意味で同様である。火花や炎の赤い光とカメラを介した青い光が、作品全体に幾度となく映る。
『E.T.』における虹、『未知との遭遇』におけるシンセサイザーとともに発せられる七色の光とは、言葉である。つまり言葉は単色ではない。『super8』は、多色である言葉を分解し、そのひとつひとつを対比させながら、映画の色を丁寧に宣言していく。いうまでもなく、青い光は虹の一部である。大きなスクリーンに照射されながらも同一の現実をもたらすことはなく、ソリッドな手触りを伴いながらもどこか感傷をくすぐられる、あの青い光のゆらめきこそが、映画から発せられた、そして映画にしか発することのできない言葉のように聞こえてくるのであった。