午後2時。西の部屋、今川焼を解凍中。
◇冷凍食品の今川焼が結構美味しい。デザートにしようと思ったのだけれど、昼食のそうめんが思いのほか多くて食べられなかったので、我が家で最も暑くなる部屋で自然解凍することにした。
◇昨夜はちょっと飲み過ぎたようで、朝起きると少し頭痛がした。普段はぶらり途中下車の旅を見ながら遅めの朝食を摂り、その後一時間くらいしてから水泳に行くのが土曜日の過ごし方なのだが、今日は止めることにした。昼過ぎには妻と動物園に行く。
◇古谷実『僕といっしょ』をまた読んでいた。ふざけ続けることで毎日を生き延びてきた彼らが、圧倒的な現実を前に真顔にならざるを得なくなる。その瞬間に立ち会う度、いつも涙する。鮮やかに描かれた爆笑の限界と、それを乗越える勇気。
丸腰のままでは太刀打ち出来ない現実を、だから彼らは笑いに塗り替える。すぐ起とイトキンが徹底的にふざけようとするのは、それによって共犯関係を築き、爆笑の起こらない環境、つい本音を言ってしまう可能性から距離を取り続けるためである。彼らにとって本音とは、むき出しの現実に素手で挑み、打ちのめされる自分自身を晒すことである。打ちのめされた自分自身を包む存在を持たないとき、無邪気に本音を語ることほど恐ろしく危険な態度はない。本音は、秘めることで絶対化されるのである。
この物語は、彼らの対決及び逃避の軌跡である。ありのままに享受するにはあまりに過酷な現実から、いかに距離を取っていくか。どこまで冗談を差し挟めるか。
物語最後の対決が大きな意味を持つのは、単に現実の圧倒的かつ暴力的な豊穣さを目の当たりにするからではなく、それにどのように敗北したかが描かれているからだろう。圧倒的な現実自体は、彼らは今までに何度も経験していたのである。あの暴力がそれまでと明らかに異なるのは、そこに友達の視線がある、ということだろう。父親の暴力に屈し、泣きながら謝るすぐ起と、それを目撃するイトキン。ひた隠しにしてきた本音の部分が最も屈辱的な形で晒され、すぐ起とイトキンの共犯関係はいとも容易く崩されるのである。この、弁解の余地を残さぬほどの完敗は、だがしかし、まさにその弁解の余地のなさにこそ出口を見つける。冗談のフィルターを挟む間もなくさらけ出してしまった本音は、二人の信念であり最後の砦であった爆笑の不可能性を露わにするが、と同時にその本音をひとつの倫理へと高めるのである。ひとりの本音が第三者によって見つめられる可能性を持った瞬間、そこには倫理的な価値判断が介入する。その相対化される危険性こそ、すぐ起が恐れていたものであった。しかしすぐ起が案じるよりも先に、イトキンはその本音を深く支持し、共闘の姿勢を見せる。すぐ起ひとりでは決して為し得なかった父への反撃と、その返り討ちに遭うイトキンの様子が、すぐ起の本音を積極的に発露させていく。
ぼこぼこに腫れあがった顔で、笑いもふざけもせず、ただそのままの表情をした彼らのコマをもって、この作品は終わりを迎える。本音をこぼしても死ななかった彼らは、何もかもを笑いに塗り替えることを止める。
◇言葉を挟む余地すらなく、ただ流される他に身動きの取りようがない瞬間はある。言葉の限界を知らずに、言葉の力を謳うことはできない。
◇考えたら結婚して初めての動物園である。前回行ったのは一昨年の夏で、就職も決まり、結婚の時季を相談している最中であった。今年は我が子の誕生を待ちながら園内を歩く。妊婦に動物園の坂道は辛くないのだろうかと思いながら、妻は普段と変わらない様子で歩く。生後一ヶ月ほどのマレーバクの赤ん坊を眺めると、うずくまって眠る赤ん坊の近くで母親がぐるぐる歩き回っている。
◇いわゆる歴史の話を聞くと、なんだか自分と切り離された物語を見ているような気分になる、というのがまあ正直なところだろう。流れていく時間の一部を自分が担うというよりは、大文字として記録されるべきひとつの時間が流れていて、それはこの社会を築く主流であり、それと並行して流れる別の小さな時間のなかに自分が居るようにすら思えてしまう。ある側面ではこれは正しいのかもしれないのだが、内的な時間と外在化した時間の二つしか存在せず、内的であると同時に公的な時間の存在を忘れてしまっているようにも見えるのである。いわゆる世界と自分の尊大な二項対立、ということになる。
ラップは、まず外在する時間を体内に取り戻す。日常的な言葉を、自分の声を使って持続的なリズムに作り替える。これは正統な生の記録だろう。こうして作り出された彼の内的時間の記録は、次にリミックスやサンプリング、その他DJプレイの中で断片的に切り刻まれる可能性を孕む。ラッパーは自分の内的な持続をもった時間が、ある視点からは断片的に捉えられる、ということを前提とした上で生を記録するのである。つまりここには、自分と世界だけがあるのではなく、自分と世界の関わりを見つめる誰かの視点が常にある。
ラッパーのシアトリカルな態度とは、つまりこの第三者の視点を担保するものだろう。自分をキャラクター化して捉えることで、自分がどのように世界を見ているのかを自覚する。性別、地域、国籍、趣味、思想、自分を取り巻くあらゆる社会的な属性と、そこに顕われる感覚や感情の全てに自覚を挟み込み、自分が世界をどのようなフィクションとして描き出すのかを見る。全てのラッパーがヒップホップという文化の成員であるというのはそのような意味である。そこには正史も偽史もない。
膨大なアーカイヴを盾に歴史の終わりを主張されても、どうしても失笑してしまいそうになるのは、おそらくこうした営みを見ているからだろう。記録は、大文字の歴史にのみ特権的に許された行為じゃない。そういう風に見える瞬間があったというだけの話。
◇日曜日。水泳は50分1800メートル。やはり夏休みということで、ちびっこ達で賑わっている。水泳専用レーンまでかなり混雑していて、折り返しのたびに順番待ちの列ができてしまう。僕は追い越しレーン以外で前の人を抜かすことはないのだが、時折、もたもたすんなよとでも言いたげに列を無視して泳ぎはじめてしまう人が居る。僕はそういうヤツを泳ぎで追い抜くことを密かな楽しみにしているのだが、夏休み中の混雑は追い越しレーンすら混雑していて、なかなかそうも行かないのである。別に、追い抜いたところでヤツも何も感じない筈なので、すぐに諦めることにした。