web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後4時半。薄暗がりと白い息。

◇頬を紅潮させた息子が泥だらけで遊んでいる。気付くと公園には私たち父子だけになっていて、薄暗くなってきた年末の空に、息子と私の笑い声が抜けていく。

◇23日は近所に住む義父母をお招きして、我が家でクリスマスパーティを開いた。興が乗ってきた息子が、お気に入りの音の鳴る絵本でクリスマスソングをかけながら歌とダンスを披露し続け、いそがしく楽しんでいた。義父母といっしょに妻の作ってくれたグラタンやバクテーを食べ、年々賑やかになっていく我が家の様子を眺めていた。そういえば私がグラタンを好きになったのは、妻が作ったものを食べてからだ。
 翌朝、24日にもかかわらず、息子の枕元にはサンタクロースからのプレゼントが用意されていた。息子の指摘で気がついたのだが、サンタさんからのプレゼントの包装紙が、児童館のクリスマス会で妻が作ったブーツと同じ絵柄だった。

◇クリスマスから年末にかけてパーティが増えたせいか、妻はお腹を壊してしまった。私もちょっと胃が痛い。

◇クリスマス前のことになるが、ミラノ座のラストショウプログラムにて『E.T.』を観賞。3歳の息子の映画館デビュー戦でもあった。二度目に自転車が飛ぶシーンに涙を堪えていたら、膝の上の息子が突然振り返り、興奮気味に「自転車飛んだの、しごいー(すごいー)」とたどたどしく話しかけてきて、たまらず号泣。そのまま虹のシーンまで止めどなく。
 “I'll be right here.”の台詞から虹が描かれるまでの音楽が、とてつもなくすばらしくて、毎回驚いている気がする。シェルターが閉まりかけるときに、音楽が一旦静かになる演出は、おそらく一番最初に映画のなかの「音楽」を意識した瞬間でもあったと思う。言ってみれば、あの一瞬で、エリオットとE.T.の共振と断絶が同時に描かれてしまう。それは物語(映像)の流れとは少し違うタイミングで描かれる別れであって、つまり音楽はあくまで音楽として、映像の外側からこの物語に介入しているようにも見える。
 その日帰宅して、興奮さめやらぬまま『E.T.』の話をしていると、「ところでETって、かくし芸大会で研ナオコがモノマネしてなかったっけ?」と妻が言う。

◇今年もMiseさんにお声がけいただき、2DColvicsにて『2014 BEST ALBUMs In 日本語ラップ』『2010-2014 BEST ALBUMs In 日本語ラップ』を選ばせていただいた。ついでに、一年の出来事を振り返る意味でも、『2014 BEST act In 日本語ラップ』といったものも並べてみた。あらためまして、こんな機会をいただき感謝です。
 毎度のことながら、順位は便宜的にあてはめたもので、作品の出来不出来みたいなものをそのままランキングに反映しているわけではない。ただし、やっぱり基準として、1位には一番面白かったと思うものを置いているので、そういう意味では問題なくBESTランキングだと思う。

◇『2014 BEST ALBUMs In 日本語ラップ』は、基本的に1位と10位、2位と9位、3位と8位、4位と7位、5位と6位のペアで、同じテーマで選出させていただいた。このランキングは5位と6位の間に鏡を置いて、それぞれ裏写しになるようなイメージで配置している。
 『2010-2014 BEST ALBUMs In 日本語ラップ』の方は、説明が大変なのでメモをそのまま載せておく。

クリストファー・ノーラン『インターステラー』

クリストファー・ノーランインターステラー』。宇宙とタイムトラベルと親子。

 ネタバレ前提で書きます。
 『2001年宇宙の旅』との関連から書くと、「人智」の範囲を広げるという『インターステラー』の姿勢は、そのままHALとモノリスを合体させた人工知能キャラクターに表われる。かつて表象(≒理解)可能か不可能かという意味において厳格に区別されていたHALとモノリスは、『インターステラー』においてはひとつの人工知能、つまり理解の内側の存在にされてしまう。あの異様な手触りを伴う直方体は、「映像化不可能」を示す記号としての役割をやめ、おそらく工学デザイン的な意味を担うに留まっているし、『インターステラー』に登場する人工知能たちは、人間の予測に反して叛乱を起こすHALと対照的に、どこまでも人間に忠実であり続ける。彼らを放っておいても「裏切り」という未曾有の事態は発生せず、つまり人智を超えることは、ここでは人工知能の発達とは無関係の出来事にされている。
 では、限界・不可能の突破=人智の拡張はどうやって可能になるのか。言い換えれば、モノリスが担っていた「映像の外側」は、『インターステラー』においては、どこに描かれているのだろうか。
 ひとつ、ここで言う「限界」は「重力の制御」のことであり、これの可否によって、人類が他惑星に移住できるかどうかが決定する。重力はつまり、光や、音や、そして時間という形を借りて表現されるが、劇中、こういった「重力」を自在にコントロールする人間の姿が描かれる。首を傾けてロケットを眺めるマシュー・マコノヒーは、重力に担保された視点を変調させ、宇宙空間に地球の環境音をかぶせてしまうデヴィッド・オイェロウォは、重力に左右されずに音を持ち運んでいる。その延長線上に置かれた父と娘の交信は、だから唐突なものでもなんでもなく、あり得べきものとなる。なぜなら、私たちはすでに、物語をつむぐことによって、時間=重力を自在に制御しているからだ。
 ところで、『2001年宇宙の旅』が示したもので最も重大なものは、モノリスの手触りだろう。猿の群れのなかに屹立するモノリスも、宇宙空間に浮かぶモノリスも、その周囲と溶け込むようで溶け込まず、異物としての違和感を常に纏っていた。モノリスだけが、その他の事物と異なった位相にあり、映画のなかに、ただただそのままとんと置かれてしまった立体である。それを理解の内側に置こうとするかどうかの議論は置いておいて、ひとまずそうした立体を描写してしまうのが『2001年宇宙の旅』である。ここを起点として議論を展開させ、モノリスに触れる道を決断したのが『インターステラー』なのではないかと思う。異なる位相・次元のものに、触れるということ*1
 例えば、モノリスとの「距離」は、映画とそれを観る者の「関係」に置き換えられたのだとも言える。5次元空間のなかに3次元空間が出現することも、23年分のメッセージを一気に受信するまでの流れを目撃することも、折り曲げた紙にペンを貫通させてワームホールを説明することも、全て作品の内側に丁寧に描かれた「外側」である。しかしにも関わらず、ともすれば作品に穴を開けてしまう強靭な「外側」の力に依存することなく、作品それ自体の自律性を高めていくことができたからこそ、『インターステラー』は異なる位相にあるはずの内側と外側の接触(の描写)に成功したのではないだろうか。接触を接触足らしめるのは、同一化の欲求ではなく、相互に自律しようとする欲望であるはずだからだ。

◇それにしても、23年分のメッセージの再生には嗚咽をこらえ切れなかった…。こういったヒューマンドラマとしての演出こそがこの作品の核であり、上に書いたように、作品の内部と外部をしっかり分け隔て、後の「接触」に必要な要素になっている。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20141208より、一部抜粋。

*1:もしかしたら、その挑戦はモノリスに触れようとして火達磨になった『2010年』以来かもしれない

午後5時半。年末の机まわり。

◇会社にて仕事をたたむ準備。年末というか、退職するので。

◇土曜日は、息子の腸の検査のために八王子へ。
 先日、大きい研究機関で検査をした際に、一番こわい腸回転異常症でないことはわかったのだが、その際に造影検査をしなかった大腸の部分を診る必要があった。結果、特段注意の必要なことはなく、ただS字結腸とよばれる箇所が長いということだった。息子の便秘の原因はおそらくこれらしく、もしかしたら大人になっても1日おきのペースなタイプの人かもしれないらしい。
 インフルエンザの予防接種も先日の検査も泣くことなく、おとなしくしているのを知っていたが、今回、お尻からの造影剤の投与も神妙な顔でこなしていた。妻が手を握っていたが、手のひらにじっとり汗をかいていたらしく、それは幼い息子なりに状況を理解して我慢していたのであり、いつも決して余裕でこなしていたわけではない、ということであった。
 検査結果にひと安心した私たち家族は、生後1年半強暮らしていた八王子の街を満喫して帰宅した。途中、南口のあたりでビッグバンドが『サンタが街にやってくる』を演奏していた。

◇日曜日、ドラッグストアとトイザラスに買い物に行ったのだが、そのどちらでも『サンタが街にやってくる』が流れていて、息子がそのことに気づく。演奏のなかから主旋律を聞き分けることができているらしい。

◇最近の息子は結構複雑な文法を扱えるようになってきているが、それゆえになのか、時制を軽々と超越して怒りを表明したりする。
 どういうことかというと、例えば今朝の話。遊ぶのに夢中な息子をだましだまし、なんとか朝食の席につかせることができた。食事のペースも軌道に乗り、ひと安心したタイミングで妻が「あ、手洗うの忘れちゃったね」と私に言う。すると、耳ざとくそれを聞きつけた息子は、さっき手を洗いたかった!と言って泣いて怒り出す。それならばと、今から手を洗いに行こう、と提案しても息子の怒りが収まることはない。手を洗いたいのではなく、手を洗いたかったさっきを取り戻したいからだ。ひたすら涙ながらに「もどして、もどして」を連呼する息子に、両親は苦笑いをしてやり過ごすしかなかったりする。傍から見れば、世の不条理に直面した子どもに見えるのだが、果たしてそうだろうか。
 文法を身に着けることは、時間を対象化することであり、時間もまた、その他のあらゆる名詞・代名詞のなかのひとつとして数えられるものとなる。「いまここにあるもの」を言葉に変換しはじめた瞬間から、「いまここ」と、それを指し示す言葉に変換された「もの」は分離をはじめ、言葉になった「もの」はそれを語る者の支配下におかれる。記述・口述といった語りの運動で描かれうる時空間もまた、語り手に従属する宇宙となる。
 息子はまだ、手を洗いたかったさっきが、自分の作り出した時制であることを知らない。だから両親に、時間を巻き戻してもらうことを望むのだろう。それが自分の支配下に置かれていることに気づくことさえできれば、彼はおそらく、誰にどんな感情=情熱をぶつければいいか理解するのではないかと思う。

◇で、クリストファー・ノーランインターステラー』。宇宙とタイムトラベルと親子。

 ネタバレ前提で書きます。
 『2001年宇宙の旅』との関連から書くと、「人智」の範囲を広げるという『インターステラー』の姿勢は、そのままHALとモノリスを合体させた人工知能キャラクターに表われる。かつて表象(≒理解)可能か不可能かという意味において厳格に区別されていたHALとモノリスは、『インターステラー』においてはひとつの人工知能、つまり理解の内側の存在にされてしまう。あの異様な手触りを伴う直方体は、「映像化不可能」を示す記号としての役割をやめ、おそらく工学デザイン的な意味を担うに留まっているし、『インターステラー』に登場する人工知能たちは、人間の予測に反して叛乱を起こすHALと対照的に、どこまでも人間に忠実であり続ける。彼らを放っておいても「裏切り」という未曾有の事態は発生せず、つまり人智を超えることは、ここでは人工知能の発達とは無関係の出来事にされている。
 では、限界・不可能の突破=人智の拡張はどうやって可能になるのか。言い換えれば、モノリスが担っていた「映像の外側」は、『インターステラー』においては、どこに描かれているのだろうか。
 ひとつ、ここで言う「限界」は「重力の制御」のことであり、これの可否によって、人類が他惑星に移住できるかどうかが決定する。重力はつまり、光や、音や、そして時間という形を借りて表現されるが、劇中、こういった「重力」を自在にコントロールする人間の姿が描かれる。首を傾けてロケットを眺めるマシュー・マコノヒーは、重力に担保された視点を変調させ、宇宙空間に地球の環境音をかぶせてしまうデヴィッド・オイェロウォは、重力に左右されずに音を持ち運んでいる。その延長線上に置かれた父と娘の交信は、だから唐突なものでもなんでもなく、あり得べきものとなる。なぜなら、私たちはすでに、物語をつむぐことによって、時間=重力を自在に制御しているからだ。
 ところで、『2001年宇宙の旅』が示したもので最も重大なものは、モノリスの手触りだろう。猿の群れのなかに屹立するモノリスも、宇宙空間に浮かぶモノリスも、その周囲と溶け込むようで溶け込まず、異物としての違和感を常に纏っていた。モノリスだけが、その他の事物と異なった位相にあり、映画のなかに、ただただそのままとんと置かれてしまった立体である。それを理解の内側に置こうとするかどうかの議論は置いておいて、ひとまずそうした立体を描写してしまうのが『2001年宇宙の旅』である。ここを起点として議論を展開させ、モノリスに触れる道を決断したのが『インターステラー』なのではないかと思う。異なる位相・次元のものに、触れるということ*1
 例えば、モノリスとの「距離」は、映画とそれを観る者の「関係」に置き換えられたのだとも言える。5次元空間のなかに3次元空間が出現することも、23年分のメッセージを一気に受信するまでの流れを目撃することも、折り曲げた紙にペンを貫通させてワームホールを説明することも、全て作品の内側に丁寧に描かれた「外側」である。しかしにも関わらず、ともすれば作品に穴を開けてしまう強靭な「外側」の力に依存することなく、作品それ自体の自律性を高めていくことができたからこそ、『インターステラー』は異なる位相にあるはずの内側と外側の接触(の描写)に成功したのではないだろうか。接触接触足らしめるのは、同一化の欲求ではなく、相互に自律しようとする欲望であるはずだからだ。

◇それにしても、23年分のメッセージの再生には嗚咽をこらえ切れなかった…。こういったヒューマンドラマとしての演出こそがこの作品の核であり、上に書いたように、作品の内部と外部をしっかり分け隔て、後の「接触」に必要な要素になっている。

KOHH、もしかしたらだけど、ハイカルチャーに接近していくのかもしれない。

カニエ・ウエストはどうやら元々ハイカルチャーが好きだったぽいけど、しかしどうも、ヒップホップの提示する「ストリート」は、パンク的な「ストリート」とは違っているのは確かだろう。

*1:もしかしたら、その挑戦はモノリスに触れようとして火達磨になった『2010年』以来かもしれない

午前1時。雨音に凍える。

◇ガスファンヒーターに火を入れる。

◇今朝は地域の一斉清掃。土曜の雨で濡れた地面に張り付いた落ち葉をはがす。妻と私が集めた落ち葉を、息子は懸命にまき散らしていた。

◇昨夜は妻と二人、夜遅くまで撮り溜めたビデオを眺めていた。まだ伝い歩きをしている頃の息子の様子を観ては顔を見合わせて笑っていたのだけれど、基本的にはいまやっていることもほとんど変らない。子供の成長に目を見張るのは確かだが、たかだか3歳。最近の息子の話す言葉も、喃語に毛が生えたようなものだ。ただ、その毛を伸ばしていけばロジックになり、編んだり染めたり飾りをつけたりできるようになるという意味ではみなそうなのだろう。
 大いに毛を伸ばして欲しい。

◇一週間前の11月24日、第十九回文学フリマに合わせて、アラザルの9号目が無事に先行発売された。内容についてはこちら→http://arazaru.tumblr.com/post/103254119325/vol-9
 正式な本誌としては、前回から実に2年ほどの月日が経っていて、ちょっと出すまでは大変な感じもあったのだけど、蓋を開けてみれば本文300頁超の“いつもの”分厚い批評誌になっていた*1。創刊号のようなヴォリュームを、9号まで保っていられるのは幸運だと思う。というか、それだけではなく、アラザルには奇跡的な幸運がいくつもあって、その幸運を同人ひとりひとりが最大化すべく努力してくれて、ようやく成り立っている。
 今回の表紙を手掛けてくれたのは、同人にカムバックしてくれた黒川さん。創刊号以来の表紙だけど、こういった引き出しもあるとは。黒川さんの原稿も是非読んで欲しいのだけど、いくつものイメージを重ねることで、図像の情報量を増やしながら異化してしまう。

◇また今日もアラザルのメーリスを観ると、喧嘩が起きていた。

クリント・イーストウッドジャージー・ボーイズ』。クリストファー・ウォーケンが主役だと思った。

ジャージー・ボーイズ』を観た後、『ディア・ハンター』を見直したのは、この映画で自分が『Can't take my eyes off you』を初めて知ったから。なんだけれども、それどころか、恥ずかしながら見直してようやく気づいたのだが、クリストファー・ウォーケンの映画だった。また、さらに言ってしまえば、『ディア・ハンター』でロシア系アメリカ人を演じたロバート・デ・ニーロの盟友ジョー・ペシは『ジャージー・ボーイズ』にも登場し、フォー・シーズンズとの関わりが描かれていて、いろいろと接続されていく。まさかあの名台詞があんな風に使われるとは!

 しかしそれにしても、映画のなかで描かれる音楽が良いとそこだけ突出してしまう、という皮肉はよくあるけれど、『ジャージー・ボーイズ』においては、あの名演奏がそのままそっくりあの映画になっている。「音楽」と「画」という分離した要素が上手に絡み合ってできているのではなく、あの映画そのものがひとつの音楽になっているし、あの音楽がそのまま映画になっている。

*1:というか、この間に出したいくつかの企画誌『アラザレ』や『1/2』号なども、かなりのクオリティだとは思うんだけど、アラザルは分厚さをもって本誌認定してるのだろうか??

午後4時。秋風になびく妻の髪。

◇土手の上まで迎えに来た母に向かって、川辺の公園に居る息子が、おう、と言って応える。日が暮れ始めるより先に、風が冷たくなってくる。

◇土曜日、来年から通う予定の幼稚園にて、入園前面談。言ってみれば入試である。ほとんど全入だけれども。
 両親はどちらかひとりだけしか面談に立ち会えないということなので、私が行くことになった。妻曰く、母といっしょだと甘えが出るのか、人見知りが強く出る傾向があって、面談のときにきちんと自己紹介できないかもしれない、とのこと。実際、私の知る最近の息子は、近所の人と交わす挨拶の声も大きくなってきたし、公園で出会った初対面の子と話したりいっしょに遊んだりしていて、特に激しい人見知りを感じることが大分少なくなった。そう考えると、妻の分析は正しいのかもしれない。果たして面談はうまくいき、息子は自分の名前と年齢をはっきり話し、笑顔で面談を終えたのであった。もっとも、面談の日の数日前から、妻はしっかり息子とシミュレーションを繰り返していたわけで、こういうイベント、大袈裟に言えば通過儀礼は、目安になるのでありがたいなあと思う。

◇おはようの直後、なぜ父はまだ起きないのか?という質問に始まり、寝る間際、まだ遊びたかったのに、と一日を締めくくるまで、息子は本当に一日中ずーっと喋り続けている。外出しても、自転車の後ろの座席から質問や鼻歌が途切れることはないし、疲れて不機嫌になっても言葉を切らすことはない。レトリックやダジャレも好むようで、週末だけ長く居る父にとってはなかなか楽しい。しかし妻のように、一週間の大半を二人きりで過ごしていると大変だろう。
 私のダウンジャケットの脇の部分が破れてしまった。妻が今度まつり縫いをして直すと言うと、まつりの言葉に反応した息子が、ならば太鼓を叩くから今すぐ直せと言う。結局根負けした妻がちくちく針仕事を始めると、息子が力んだかけ声とともに太鼓をどおんどおんと威勢よく鳴らす。例えば今日はこんな感じであった。毎日、こんな不思議な光景が作られている。

◇Chet Faker『Gold』。監督はヒロ・ムライ。

小林雅明さんの紹介で知ったビデオだが、なんというか、90年代後半のMTVみたいな印象を受けた。というか、私が一番最初に連想したのは、明らかにJamiroquai『Virtual Insanity』。

このビデオ、動いているのは床ではなく壁だった、という撮影方法の話も合わせて考えてみると、ますます『Gold』も似ているように思えてくる。三人のローラーガールの幻惑的なダンスを、先を走る車からカメラで捉えている感じなのだが、抑えた照明とワンカット風の映像のせいで、ほとんど密室で行われるダンスのようにも見えてくる。ローラーガールが下がったり前に来たり、たまに上下する視点というところも含めて、『Virtual Insanity』なのではないだろうか。そして、アスファルトも電光掲示も実は全てセットで、つまり動いているのは壁ではなく床だったのではないか、といった『Virtual Insanity』の真逆のオチも期待してしまったりする。どのように撮られたのか知りませんが。
 それぞれ、密室の「外側」として用意されているシーンがある。『Virtual Insanity』の血液とカラス、『Gold』の事故車と鹿(の剥製?)である。人工的な密室と対称を描くように生々しいイメージが配されているのだが、前者のそれは流れる血液と羽ばたいてどこかへ飛んでいくカラスであり、つまり動きを同時に与えることで、密室の外側はより強く意識される。対し、後者はChet Fakerの唇以外に動くものはほとんどない。のだが、そのかわり、それらの動きは、戯れるローラーガールを後ろから追い抜かし、動く床と、少し明るくなりかけた空の色を映すカメラの目自体が補完している。つまり、『Gold』を『Virtual Insanity』の批評として捉えるならば、動く床やソファと戯れるように踊るJason Kayを観ているのは、あのカラスであった/あるべきだ、ということになる。映像的なマジックの落としどころというか、一連の映像にある種のストーリーを持たせるという意味では、それは正しいだろうし、「このミュージック・ビデオはドラマである」という宣言にも見える。
 それにしても、このローラーガールの魅力はちょっとすごい。

アラザル9号の原稿、大詰め。

午後2時半。川沿いの風。

◇シャボン玉を飛ばして遊んでいた。その様子を見ながら、三歳になったばかりの息子としばらく談笑した。

◇三連休の2日目と3日目は、妻が風邪を引いてしまったため、息子とふたり、ほとんど近所で過ごすことになった。大型連休だからといって特別なことはしなかったけれど、かえってそのおかげで、ゆったりと過ごせた気がする。先週末が完全につぶれたこともあり、息子の一挙手一投足に、こんなことができるようになったのか!といちいち驚いていた。
 つい先日までは、噛みつき&ひっかきブームというのが来ていて、体中に息子の歯形やらひっかき傷やらを作っていたのだが、気付くとそれもなくなっていて、今はもっぱら否定形ブームである。大体「なんで〜〜なの?」という問答から始まり、一時期までは延々とその質問がループするだけだったのが、最近はちょっと回答を間違えるとすぐに「そうじゃなくってえ!」と返される。機嫌の悪いときには泣きながら地べたによよと崩れ落ち、連呼する。どうやら本人のなかで、はっきりとはしていないが想定される受け答えの定型みたいなものがあるらしく、そこと食い違うとこういった反応になる様子。つまり、会話に型があること自体は既に体感しているわけで、裏返せば、「そうじゃなくってえ!」は、その少ない型のバリエーションを増やす機会に触れている、ということでもある。
 ただ、そうじゃなくってえ!が極まると、大抵うわあああああと声を挙げて泣きじゃくって、すぐに非言語に逃げ込もうとする。しかしその逃げ込んだ先が居心地の良い場所だとは本人も思ってないらしく、その辺で揺れるのが3歳児なのだろう。
 今日も不平不満を涙ながらに訴えつつ、睡魔に負けて寝た。寝室を出て一時間ほどすると、泣き声とともに不平の続きが聴こえ、妻がまた慌てて寝室に入っていくのだった。

川柳川柳がガーコンのなかで必ずかける歌のひとつに『空の神兵』があるけれど、ECD『いるべき場所』をこないだ読み返したら、一発目に出て来る曲だった。ECDの母親がよく口ずさんでいたということだが、川柳とECD母はそれぞれ31年生と36年生の5歳違い。この曲自体は1942年に発売後、同年秋の同名映画の主題歌になって更にヒットしたらしいのだが、川柳はガーコンのなかで、「見よ落下傘空に振り」のところから、ビートを倍速にして、扇子で8分音符を刻み始める。当時の人々のビート感覚はわからないけれど、戦後に一挙ジャズ化するまでを辿るこの噺のなかで、大戦中の軍歌にこうした拍子の変化をつけているのが印象に残る。
 『空の神兵』が世に出た1942年は、のちに『東京ドドンパ娘』で大ヒットを記録する渡辺マリの生年でもある。『東京ドドンパ娘』は1961年に発売後、100万枚超のセールスを記録したそうだが、同時に当時のダンスミュージック、ドドンパを代表する曲でもある。ドドンパは、大戦後に流入したジャズ、あるいはルンバやマンボといったダンスミュージックに対抗すべく開発されたということで、日本のポップスのなかに、リズムを中心に据えた時期があったことを示してもいる。

午後9時。蝉も泣き止む。

◇涼しくて強い風で、肌寒さすらある。

◇今週末は台風もあって、外出らしい外出も特にしなかった。土曜に最寄り駅裏の百円ショップまでボールを買いに行ったのと、その夜に妻の実家に行ったのくらい。途中、ご近所のおじいさんやおばあさんに会って、挨拶をした。人見知りの息子は、普段挨拶の言葉を言えず、無言&真顔で手を振ったりタッチをするのだが、この日はついに、小声ながら満面の笑顔で「こんにちわ」と言った。父は思わず、聴こえました?と相手に言う。
 土曜夜の妻の実家、夕食前に、息子と電子ピアノで遊んでいた。大抵、私がピアノを弾くと、息子は膝をよじ上って邪魔をしてくるのだけど、この日はなぜかやたらと積極的に私にピアノを勧めてくる。『夢路より』を弾いていたときだと思うが、突然、それは汽車ぽっぽの歌である、と断言。そうですかと相槌を打ってから、次に適当にコード弾きをしていると、大人しく耳を傾けてから、それはなんの歌か、と尋ねてくる。先ほどが汽車ぽっぽの歌だったので、飛行機の歌だ、と答えると、じゃあその次は「これ」の歌を弾いてくれ、とリクエストまでもらった。「これ」と言いながら息子が手に持っていたのは何かのペンのキャップで、大喜利のお題をもらったような、もしくはなんだかコンテンポラリーな気分になった。
 日曜日は風も雨足も強く、一日中家に居た。珍しくちょっとした整理整頓までしてしまう。コンポから流れる音楽を流しっぱなしにしていたら、こちらについても、息子は踊りながら曲名を知りたがる。
 家がちょっと片付いてきたころ、雨風の合間を塗って、義父母がわざわざ届け物に来てくれた。歓迎の意を込めてか、息子は祖母のつきそいでトイレおしっこを披露していた。おしっこ名人になってもう10日になる、と妻が教えてくれた。

◇もう随分前になるけれど、小保方女史の会見を観たコラムニストが、実力に対して「虚力」という言葉を持ち出していた。実力が本人の身となった力だとしたら、虚力とは、本人の力ではない、他の誰かの力を引き出すような、ある種のマネジメント能力のようなものなのだという。意訳はあるが、概ねこれで合ってるだろう。
 さて、この実力と虚力がわかりやすく運用されているのが、芸人の世界じゃないだろうか。噺家のそれでもいいけど、おそらく漫才コンビの方がかなり象徴的に役割分担をしている場合が多かったりすると思うのだが、さておき、虚力は、自分たちのステージを用意するために最も必要とされる能力であって、いくら実力があっても、ステージを用意するための政治的振る舞いができなければ、表現の場すら与えられない。あるいはまた、虚力に秀でてしまって、実力以上のステージを獲得してしまっても、それに間に合わせるように中身を埋めていく、という場合もあって、実力と虚力は、いわば料理と器のような関係と言っても良いかもしれない。この、虚力なるものは、旨い料理を作ることにだけ専念すればよく、皿もカトラリーもクロスも沢山持っていて、料理をどうお膳立てするかまで気を配る必要のない者には、ほとんど要らない能力かもしれない。ちなみに、そういう人間が実力至上主義を唱えるときには、彼らの置かれた立場に反省があるかどうか、常に気を配って置く必要がある。しかしコンペティション性の強い文化の場合、皿をどのように手配するかというところも評価のうちに入って来る傾向があり、つまり虚力とは、ある種のマイノリティが、ステージ確保のために必要とする能力だったりもする。芸人とラッパーはこちらに近いと思う。

◇スポーツだって、虚力と実力が不可分に絡み合っているものはたくさんあるように見える。

虚力を用いて、本流以外のステージを作っていくうちに、いつしか本流のステージで「実力」をいかんなく発揮できてしまう、みたいな。そういう意味では、ショウアップされたものは、もう虚力と実力を選り分けることが難しくなる。

◇ショウアップに耐え得るだけの準備がないと、かなり悲惨な出来事も起こるだろう。