web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

ラップ論メモ2

メモ。語りは、普段使いの言葉を駆使しながら、ひとつの連なりとして持続することによって完結した時間をこの場に再現してみせる。そのとき僕らは、唇から放たれた声の音色、リズム、音の高低に意識的である。演説も歌も、本質的な違いはない。
メモ。全ての出来事は、一回きりの出来事であるはず。言語活動は、本来一回きりの出来事であるはずの瞬間を、既知の反復と認識させる。僕らが現実を知覚して再構成できるのは、この反復可能性に依る。
メモ。反復可能な言葉とは、僕らの身体の外側にある言葉のことである。しかし、僕らは語ることができる。語りとは、身体の外側にある言語的認識を、発話という行為によって接触可能なものにする。肉体を通じてひとつの完結した空間を作り上げる。
メモ。録音は、肉体の介在しない音を提出してしまう。
メモ。聴くという行為は、鼓膜に触れる全ての空気の振動から、特定の音を選別することであり、だからこそ全ての音を言葉とそれ以外に分類しようとする。もしその選別作業がなかったならば、それはもはや聴くという行為ではなくなり、また聴くという意識を自覚できなくなってしまう。
メモ。録音は、しかしその場で震えていた全ての音を分け隔てなく記録してしまう。人の手を介さずに、言葉を介さずに、純粋に物理現象だけを機器が拾い上げる。
メモ。ラップは、録音時代の語りである。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110925より抜粋