SEEDA vs. verbal
ところで、かつてseedaとverbalがビーフに発展しそうでしなかったということがあった。返す返すも悔やまれる幻の対戦だけれども、この件について語るとしたポッドキャスト番組では、両者のdisの捉え方の違いが如実に顕われていた。
これは全くの推測だけれども、seedaはやはり、思想はラップを駆動するエンジンでしかない、と捉えていたのではないか。崇高な思想も日々の喜怒哀楽も、同じラップという表現のうえで展開する。何をテーマに選ぼうと、最終的にはラップという形でしか残らないのである。良し悪しとはラップの良し悪しでしかない。disり合いとは一種のエデュケーションであり、その輪の中に入ったラッパーやリスナーは急速にラップを聴く耳を鍛えていく。
seedaはその方向でシーンの発展を願い、verbalはオピニオンリーダーとしての自覚を持って、ラッパーではなく言論人として語った。どういう思惑があったにせよ、verbalはseedaから受けたdisとそれへのアンサーを、ラップ抜きの言論にしてしまった。果たして内容的にどちらの方法論がシーンの発展に寄与するのか僕は分からないが、こういう言論の場に引っ張り出されて尚フリースタイルをかましたseedaは、ラッパーとしての勝利はしっかり収めていたと思う。
とはいえこの一件があったからこそdisについて僕が意識的に考えることができたのは確かであり、そういう意味でverbalの問題提起は全く慧眼だった。そしてそのことがつまりverbalが優れた言論人であることを証明してもいる。