◇2011 BEST ALBUMs In 日本語ラップ(Selected by 安東三)
まず、10位と1位を最初に決めた。いわば日本語ラップシーン全体を背負うような格好になっているseedaは、海外から最先端の音を輸入しつつも見事に血肉化したラップを響かせるが、パブリック娘。は日本語ラップシーンという意識とはおよそ無縁なところで、ラップ自体が持っているプリミティヴな魅力を存分に聴かせている。この二者を平面上の両極と定め、今年の日本語ラップの立体的な像を立ち上げたい。
9位のkakatoは、環ロイと鎮座ドープネスというフリースタイル巧者の即興的快楽を、カラオケという密室空間を聴き手とともに共有することによって見事に再現している。反対に、トラックとラップの相乗効果によって空間を支配することに成功したのはsick team(8位)で、おそらく今年最もスタイリッシュな完成度を持っていたのはこのアルバムだった。7位のサイプレス上野とロベルト吉野は、持ち前の爽やかさと相変わらず切れ味抜群のアイデア&レトリックを駆使しつつ、実はフロウのバリエーションも増やしており、まだまだ懐の深さがある。アナーキー(6位)を聴いて気がついたことは、泥臭さと器用さは矛盾しないということだった。声の調子はあまり変えずとも、リリックの書き方によってここまで様々な表情が出て来るのか、という驚きがあった。元々アナーキーはラップのメッセージについて非常に聡明な見解を持っており、その分析の鋭さを証明するアルバムに仕上がっている。
5位はmoment。韓国語と英語と日本語のスイッチを成り立たせているのは、三ヶ国語をまたがる韻である。意外に言葉を詰め込み過ぎないフロウだが、にも関わらず複雑な揺らぎを聴かせるのは、異なる言語間で踏まれた韻のグルーヴだからなのかもしれない。今後もさらに独自のグルーヴを刻んでいくだろうと思う。日本語について別角度から腑分けしているのは4位のクチロロである。音が言葉として像を結ぶまでを音楽空間のなかで再現した『あたらしいたましい』は、PVも見事にビジュアル化されていて舌を巻く。耳が単語を受け取る速度を変えたのはラップだったろうけれど、今回のクチロロの作品はその速度の制御に挑んでいる。3位のmintは、軽いにも関わらず奥行きのある音楽としてのラップを存分に聴かせてくれる。それがメッセージであろうと言葉遊びであろうと、ラップされた時点で、僕らは音楽的になんらかの高揚を促される。『yeahでごまかしてる』すらアゲアゲにリミックスされてしまうこの肌触りはイルリメにも通じるけれど、多分ミンちゃんの方が振り切ってる。一番驚いたのはECD(2位)だった。おそらくタイトルの『DON'T WORRY BE DADDY』の一言に集約されてしまうのだけれど、年を取って体力が落ち、しかしそのかわりに獲得されていく迫力をダイレクトに反映させることができるほど、ECDの生活はラップされ続けている。原発デモ中のパフォーマンスもレコーディングも、全く同じ強度を保ったまま聴かせてしまう凄みは、そういうことなのかもしれない。1位のパブリック娘。は僕が今一番推したいアーティスト。一位に選んだ理由は、彼らのラップを聴いていると自分もラップしたくなる、ということに尽きる。このシンプルな感情を呼び起こす才能こそが、ラップ・ミュージックに最も大切なものであり、かつ得難いものでもあるように思える。パブリック娘。の具体的な楽曲についての言及はこちらを→http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111107
◇先週はパブリック娘。の面々に色々と聞くべく、明学に行ってきた。やはり相当に“わかっている”彼らのクレバーな態度に改めて感動する。 明治学院大学は学生に“Do for Others”の精神を求めるが、それを可能にするには、先に自分たちの輪郭を明確にしなければならない。ラップは言葉によって自分の身体と時間を自覚する行為である。与えられた時間をただ享受するのではなく、あるいはそれを否定するように自分の時間を声高に叫ぶのではなく、所与の時間を咀嚼し、再び吐き出すことで、時間を自分のものにしていく。そうでなければ、自分は自分の生を生きられず、他者の生を認めることもできない。漫然と教会に行くことが信仰の表明にならないように、自覚のないところに倫理は伴わない。その意味でも、ラップは極めて倫理的な行為だろう。もしかしたらそこが、詩と大きく異なるところなのかもしれない。