web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

SIMI LAB内紛 QN vs. OMSB

◇similabの内紛ビーフ。ツイッター上で意味深なツイート(https://twitter.com/professorQN/status/204604923474755585)を残したかと思えば、数日経って突如としてサウンドクラウドでOMSBをdisり始めたQN(http://soundcloud.com/simi-lab/omsbeef-qn)。これに対して、現在OMSBがアンサーを返すかどうかに注目が集まっている。
 と、要するにビーフとしてはまだなんにも起きていない状況。ビーフ好きのリスナー達も、来るべき盛り上がりに向けて様子見、といった感じなのだけれども、そんなさなか、ちょっと変ったことが起きている。この一件について、菊地成孔が入ってきたという。

内容的にはどうということはない、DCPRGのアルバムの共演者として、QNとOMSB両者の才能を間近に見た氏の見解なわけだけれども、面白いのはこれがラジオというメディアに乗っかった「私信」というスタイルを取っているということ。つまり、ラッパーがdisったりアンサーを返したりするのと同様に、菊地成孔は、ラジオパーソナリティとして、ヒップホップ・マナーに則った形で(つまりミュージシャン的に)、これに言及している。
 菊地成孔は、ジャズメンではあるが、ラッパーではない。しかしジャズとヒップホップの近似を指摘する氏としては、これに対して、ヒップホップ・マナーに則った形で介入していくのが筋だと考えたのかもしれない。ラップのような言葉の使用がジャズにないならば、氏の別の側面、つまりラジオパーソナリティという立場から、ここに入っていく。菊地成孔の「アンサー」は、単にQNとOMSBへの「私信」なだけではなく、メディア人という立場を駆使した、ジャズとヒップホップの「ブリッジ」である。この点は、実は一番見逃せないポイントだと思う。

◇内紛前のsimilab。超仲良い。

いきなりQNとOMSBのツーショットから始まるので、ついニヤけてしまう。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120603より抜粋。



◇本ブログにのみ追記。
 数日後、OMSBがサウンドクラウドに、一時的にデモ音源をアップしていた。『joke』というタイトルを冠したそれは、氏にしては珍しくラップ付きで、「気にしないで俺は俺の道を行く」的な姿勢も聴き取れる。ある意味ではQNへのアンサーとも取れるわけだけれども、しかしQNのそれとOMSBのこれを聴き比べつつ、僕はこのビーフを、トラックメイクもラップもできる二人による、純然たるヒップホップ勝負のように感じていた。
 ラッパーのビーフにおいては、リリックのメッセージ性を中心に、どちらがどれだけヘッズのプロップスを集めるかに焦点が当たりがちだけれど、今回は両者がどのようなビートでどのようにラップしたか、というセンスの側面での勝負が際立っていたと思う。その意味で、これまで僕がリアルタイムに観察できたビーフのなかでは、個人的にぶっちぎりのベストバウト。今後、ラップもトラックメイクもできる人間が増えていくことが予想される以上、ビーフがこのような「ヒップホップ勝負」になっていくことは充分期待できる筈。ますます嬉しい世の中になっていく。

◇追記の追記。(6月12日)
 僕自身うかつだったのだけれども、OMSBの『joke』がアップされたとき、ツイッター上ではこのような発言(https://twitter.com/WAH_NAH_MICHEAL/status/210190541370048512)があったらしい。付け加えておく。
 ただ、『joke』がこのビーフ以前に制作された楽曲だったとしても、僕自身の見解としては、QNからのdisがなければアップがなかったという意味において、そしてOMSB自身が言うように、それがそのときの氏の気分を反映しているという意味で、僕はこれを一種のアンサー=回答として受け取っておこうと思う。 

午前11時。青息吐息の水の中。

◇水泳は45分1900メートル。混んでいたとはいえ、さすがにこれはまずいんじゃないか。できたら来週も泳ぎに行って、体力をつけていきたい。

◇覚えたての胴タックルとマウントからの頭突きに、妻が泣いている。レフリーとしては止めに入るのだけれど、興奮冷めやらぬ息子は歯のない顔で大笑いしている。

◇今週は動物園には行かず、外出といえば土曜日に妻の実家で餃子を食べたのと、あとは近所の八王子駅周辺をぶらついたくらい。のんびりとした週末だった。
 息子は息子で家のなかを散策しまくっていた。ハイハイと掴まり立ち、おすわりさえ体得してしまえば、生活空間はかなり自由な遊び場になる。気に入ったものを見つけては、口に入れるか叩くかして大はしゃぎしているのだが、よく見ると特に長いものを口に入れる傾向がある。もしかしたら美味しさを測る指標のひとつに「長さ」という項目があるのかもしれない。

firefoxだと動画再生が重くなってきたので、google chromeを入れてみた。色々と便利なブラウザだと思う。

古谷実が新連載。タイトルは『サルチネス』。非常にワクワクする出だしだった。
 最近の古谷実作品に共通して見られる特徴の主人公でありながらも、彼の置かれている環境がどうも少し違う。というか、家族全体を話の中心に置こうとしているような印象。とすれば、思い出されるのは『僕といっしょ』。兄、妹、祖父というキャラクターの配置も、すぐ起、いく起(もしくは吉田あや子)、吉田の親父を彷彿とさせるのだが、さて、そう考えると、今回の主人公家族もまた疑似家族なのではないかと想像が膨らむ。もちろんまだ一話目を読んだだけなのでなんとも言えないけれども。
 古谷実は『ヒミズ』以降、生き物の名前をタイトルに冠している。ただ、もしも今回のこれが単純に「saltiness」、つまり塩気を指しているのだとしたら、ここ最近の流れとは違ったものを前に出していくという意図があるのかもしれない。

◇よく出来てる。

◇similabの内紛ビーフツイッター上で意味深なツイート(https://twitter.com/professorQN/status/204604923474755585)を残したかと思えば、数日経って突如としてサウンドクラウドでOMSBをdisり始めたQN(http://soundcloud.com/simi-lab/omsbeef-qn)。これに対して、現在OMSBがアンサーを返すかどうかに注目が集まっている。
 と、要するにビーフとしてはまだなんにも起きていない状況。ビーフ好きのリスナー達も、来るべき盛り上がりに向けて様子見、といった感じなのだけれども、そんなさなか、ちょっと変ったことが起きている。この一件について、菊地成孔が入ってきたという。

内容的にはどうということはない、DCPRGのアルバムの共演者として、QNとOMSB両者の才能を間近に見た氏の見解なわけだけれども、面白いのはこれがラジオというメディアに乗っかった「私信」というスタイルを取っているということ。つまり、ラッパーがdisったりアンサーを返したりするのと同様に、菊地成孔は、ラジオパーソナリティとして、ヒップホップ・マナーに則った形で(つまりミュージシャン的に)、これに言及している。
 菊地成孔は、ジャズメンではあるが、ラッパーではない。しかしジャズとヒップホップの近似を指摘する氏としては、これに対して、ヒップホップ・マナーに則った形で介入していくのが筋だと考えたのかもしれない。ラップのような言葉の使用がジャズにないならば、氏の別の側面、つまりラジオパーソナリティという立場から、ここに入っていく。菊地成孔の「アンサー」は、単にQNとOMSBへの「私信」なだけではなく、メディア人という立場を駆使した、ジャズとヒップホップの「ブリッジ」である。この点は、実は一番見逃せないポイントだと思う。

◇内紛前のsimilab。超仲良い。

いきなりQNとOMSBのツーショットから始まるので、ついニヤけてしまう。

午前9時。畳の埃を机に載せる。

◇ハイハイが一気にスピードアップして、掴まり立ちも随分安定してきた。自転車や自動車の運転、あるいはスノボやスケートと同様の、移動それ自体の快楽というものがあるのだと思う。身体をうまく乗りこなすことの気持ち良さ。

◇先々週、先週、今週と、ここのところ週末は多摩動物園に行っている。もうあと一回行けば、入場料の累計がフリーパスの金額と同じになる。
 入場ゲートをくぐる頃、息子はなぜか毎回決まって眠ってしまうので、入り口付近の動物はほとんど観ていない。親としては折角動物園に来ているのだからと思うわけで、起きた頃を見計らって、絵本でお気に入りのオランウータンやサイ、ゾウなどの檻の前に廻る。しかし彼にとっては動物園の生き物だからなんだといった具合で、動物を観るより檻の前の草などをじっと眺めている。あと何回回転すれば、それが自分の視点と気付くだろうか。彼が大人になる日のことを想像してみる。

◇おかげさまで『アラザルvol.7』は文学フリマでも相当数売れたみたい。今後、一般書店や通販などでも対応していくけれど(→http://gips.exblog.jp/18288716/)、正直在庫が厳しい様子。嬉しい悲鳴ではあるのだけれども。

◇批評とは何か系の議論は、自分が一体何をやってるのか把握しておきたいという欲望に突き動かされているのだろうけれど、当然のことながら、自分が何をしているかなんて問いに明快に答えることほど不自然なものはない。その意味において、非常に良い批評を書く人が意外に無垢な批評観を持ってたりすることは、なんだかんだ言ってあり得るかもしれないな、とは思っている。
 けれどしかし、やっぱり批評においては、ある種の天然な作家たちが行う自問自答よりも、ある程度自覚的な回答を用意しておく必要がある。もちろんそれは暫定的な回答でしかあり得ないけれど、しかしそれなりの批評観を設定しておかないと、対象となる作品とそれを観る自分の間に線を引くことができなくなる。この「線を引く」という行為そのものが、やっぱり批評を批評たらしめているんじゃないか。
 対象から受け取ったイメージを元手に創造することと、対象の持つイメージを丁寧に読解することは、全然違う行為だろう。前者が用意する豊かさは、対象が持ち合わせていたものとは限らないが、後者は、対象自体の持つ豊かさを読み取ることに勤しむ態度。僕は個人的に、後者を批評と捉えている。批評は作品とは異なって、それ自体で自律するものではなく、対象と合わせて立つ必要がある。
 対象を自分に血肉化するのではなく、あくまで自分の外側に置いておく。しかし、批評は記録を第一の目的としているのかと言えば、それもまた違うような気がする。いわゆるドキュメンタリなどについて、純粋な客観性を保持することはあり得ず、なんらかの恣意性が絶対に紛れ込んでしまう、という指摘はよく言われることだけれども、記録がその恣意性から可能な限り遠ざかろうとするのとは違って、批評は別にそのようなことをするわけではない。批評が行うのは、これは語り手である私の恣意性に依る、と堂々と宣言することである。
 つまり、私は対象にこのような輪郭線を引いた、というひとつの読みを提示する、ということ。それによって、輪郭線の外側に切り捨てられたものの存在を、その批評の外に感知することができるようになるだろう。そのような批評に立ち会ったとき、彼は再び対象を眺めようとする。自分にはどのような線が引けるのか、を問う余地が残される。

◇考えてみれば、セルフ撮りやらビデオチャットやらと地続きな「ガーリーラップ」が、今までなかったことの方が不思議に思えてくる。日本に置き換えれば、ニコ生アイドルとニコラップが合わさった状態かな。

ティーンアイドルがフリースタイルかます時代、こういう趣味のラッパー達はもっともっと当たり前になってくんだろな。

◇バリカンで髪を切った。坊主ではないセルフカットは初めてで緊張した(襟足は妻にやってもらった)けれど、なんとか格好はついたかも。

午後1時。動物園で雨を観る。

◇息子の生まれて初めての動物園は、あいにくの雨となった。
 朝から雲行きは怪しかったのだけれども、連休の合間であるこの日を外したらものすごく混むだろうということで、計画を強行。昼食中に降り始めた雨はその後ずっと止まず、結局僕らが帰るときまで降り続けた。屋外の雨宿りポイントから雨を眺め、移動しながら動物の濡れ姿を眺める一日。皆一様に似たような仕草をしていたのが印象的だった。

多摩動物公園は我が家から電車で数駅の距離にあるので、年間フリーパスというものを買うことにした。学生時代から結婚後まで、ここには何度もデートに訪れているが、今年から僕らには子供が加わったのである。利用頻度は更に上がっていくだろうと見越しての購入だった。そういえば息子は、母の胎に居るときに一度来たことがあった。あのとき、今日のような日を夢想しては、二人でニヤニヤとしたものだった。生まれて一人の人間として活動を始めた彼は今、一体どんな顔で門をくぐるものだろうか。少々感慨深くベビーカーを覗き込んでみると、清々しいほどよく寝ていた。

◇水泳は50分2000メートル。四月は一度も泳がなかったので、とにかく筋肉痛がひどい。とはいえ、2000メートルのペースは崩れていなかったので、ひとまずは安心。

◇久々のブログ更新になったけれど、アラザルの方は無事脱稿。校了も済ませ、あとは文学フリマまでに本が出来上がるのを待つのみである。
 それにしても、今回こそは絶対に間に合わないだろうと思った編集作業だった。締め切りギリギリまで粘る同人の原稿を、ほんの数時間程度で組み上げていくデザインチーム及び進行管理のdhmo。彼らの集中力はとんでもなく研ぎ澄まされたもので、だから多分これを続けてると、マジで死人が出るんじゃないかと思う…。

◇ヒップホップ、及びラップのことについて書いた連載エッセイ『ラッパー宣言』の第五回目を寄せました。「ラップは、歌というよりもダンスのイメージで捉えた方がしっくりくる」というところから話を展開させていきました。
 もひとつ、パブリック娘。のインタビューを掲載します。今年の三月に大学を卒業し、それぞれ社会人としての道をスタートさせた彼らですが、学生時代の活動を振り返るという意味でも、パブリック娘。の貴重な資料となると思います。言いかえればつまり、今後の彼らはますます凄みを増して行くだろうということ。期待してるぜ!
 というわけで、『アラザル7』は、5月6日の文学フリマで発売いたします。ブースは「オー38」。久々に分厚い21.5ミリ。500円。
 その他のページについては、アラザルブログの方で告知する予定です。そちらも併せて、よろしくどうぞ。

SALU『IN MY SHOES』

聴いてるうちに、これはラップ曲というよりヴォーカル曲と言った方がしっくりくるような気がしてくる。ラップは、自らの身体を強く感じながら歌われるものだと思うからだ。自己と他者の区別を取り払おうとする歌唱とは逆のアプローチ。
 「字足らず字余りがグルーヴを生む」「複数秩序の単線上の叙述が訛りを生む」。いずれも、言葉を物質に変える際、つまり発声するときに、身体側の抵抗が引き起こす現象だろう。身体を徹底的にコントロールするのではなく、むしろコントロールしきれない部分とどのように折り合いをつけるか。その試行錯誤がグルーヴを生み、聴くものの身体を踊らせる。ラップは、彼自身の身体の痕跡をレコードの上に刻み付けることで、それを聴く他の誰かにラップを促す。これはリリックが基本的にはラッパー自身の手によって書かれ、彼自身にのみ歌われることを前提としていることとも密接に関わる話だと思う。
 さて、その視点で見ると、SALUが人類愛をテーマに巨視的な視点でリリックを書くということについても回答が出そうな気がする。SALUのラップは、身体をほぼ理想通りにコントロールしたところに成り立っている。それはラッパーのラップというよりも、優れたヴォーカリストの超絶技巧に近い。符割とブレスを自在に操って刻んでいくリズムは不安定な揺らぎを孕まず、つまり彼の身体は、彼にとっては完璧に制御可能なツールとなる。決して身体の側が彼の予想を裏切ることはない。だからこそ、SALUのリリックにおける主語はSALU本人から離れ、人類そのものにまで拡張することも出来るのである。

 ラップが切り開いてきた歌唱技術を、従来のポピュラー音楽の図式に当てはめて応用したという意味において、ひとまずは優れたヴォーカリストの誕生を喜ばずにはいられない。今後のSALUが、この圧倒的なスキルを持ってしてラップそれ自体の可能性をどんどん開拓するラッパーになっていくことを期待する。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120317より抜粋。

ラップ論メモ5 大谷能生×大和田俊之『ヒップホップ・ブックカフェ』(http://snac.in/?p=1922)から

◇昨日は大谷能生×大和田俊之『ヒップホップ・ブックカフェ』というイベントへ(→http://snac.in/?p=1922)。最終的にはヒップホップの話は少なめだったけれど、アフロ・フューチャリズムという独特の時間概念を、デューク・エリントンの『A Drum is a Woman』を軸に解説するというもので、かなり貴重な体験ができた。以下、このイベントから刺激されたことも含めてメモしておく。
 大和田俊之『アメリカ音楽史』にも書かれていたけれど、公民権運動と宇宙開発史は全く同時期にあって、それがアフリカ系アメリカ人たちにちょっと独特なアイデンティティを形成させる。宇宙開発、というか宇宙人という他者に抱く幻想は、ここではないどこかへの願望を託す先である。自分を規定する時間軸を、毎日の生活を支配するこの時間(歴史)だけとするのではなく、同時に別のものを用意して、自分という存在を捉える視軸を複数化してしまう。昨夜の対談においては、自分を土星人と言い切るサン・ラから、ギリシャ人になろうとするマイケル・ジャクソン、あるいはバグパイプを持ったアンドレ3000や、バルカン星人のハンドジェスチャーをかますファレル・ウィリアムスまで、彼らは一様に他者を「偽装」(大和田俊之『アメリカ音楽史』)し、自分へのまなざしをいくつも用意するのだという(ただ、この偽装は自分の身体に無自覚だということではないと思っている。偽装することによって逆説的に立ち上がるのは、むしろ自分の身体そのものの自覚である。身体に裏切られる前提が担保されているからこそ、むしろ積極的に偽装することができたのではないだろうか)。
 大和田氏によれば、アフロ・フューチャリズムはフューチャリズム(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E6%B4%BE)とは異なり、過去に未来を幻視する想像力のこと。これは個人的にはすごく自然に受け止められるのだけれども、乱暴に言ってしまえば、言語活動そのもののことではないかと思う。例えば昨日の出来事を思い出そうとするとき、僕らはそれをひとつの独立したエピソードとして捉えようとする。あるいは一本の映画を批評するときにひとつの見立てを作ったり、歴史を政治というテーマから読み解こうとするのも同様で、僕らはそのとき、そこにひとつのフィクションを練り上げる。一冊の書物が、どう考えても文字を一文字も変化させていないにも関わらず、あらゆる読解を許容せざるを得ないのは、つまり読む=書き換えを僕らが常にしているからである。アフロ・フューチャリズムを、僕はそういうフィクション化の力によるものと理解する。
 ヒップホップの四大要素といえば、DJイング、MCイング、ブレイキング、グラフィティだけれども、そう考えるとこれらは全て書き換え行為だということがよくわかる。自分にお構いなしにあらかじめ存在しているそれらを、自分の物語のなかの構成要素と見立て、書き換え、従属させていく。ラッパーとは、自分の物語の主人公の名前であり、彼らはラップすることでラッパーの姿を「偽装」するのだと思う。

◇それから、踊るという行為は、読む=書き換えと全く同じもので、聴くことと演奏することを同じ地平に見据えることだとも思う。ラップは、唇のダンスでもある。その意味において、踊る欲望を刺激しようともしない、鑑賞用のためだけになされるラップは、ラップではない。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120317より抜粋。

午後9時。風呂にこだまするあの攻防戦。

◇顔を濡らされた息子が、水面を叩いてやり返す。

◇離乳食には色々と段階があって、現在は初期の初期、日に一度だけおかゆを何口か飲み込む。息子は新しい食生活にはまだまだ慣れない様子で、おかゆを口に入れるたびに渋い顔をする。まだまだ子供だ。
 当然のことながら、母乳は母の体内で作られるけれど、おかゆは体の外で作らなければならない。子供と母の間に料理という作業が挟まることで、子供よりもむしろ親の側が子供との距離を自覚しようとする。離乳食や卒乳という言葉を、妻はさみしいと言う。そのさみしさは、子供の食生活への気遣いに引き継がれるのだと思う。

◇なんとなく腰が重く、水泳は来週火曜日の祝日に見送ることにする。

◇昨日は大谷能生×大和田俊之『ヒップホップ・ブックカフェ』というイベントへ(→http://snac.in/?p=1922)(http://d.hatena.ne.jp/adawho/20120311)。最終的にはヒップホップの話は少なめだったけれど、アフロ・フューチャリズムという独特の時間概念を、デューク・エリントンの『A Drum is a Woman』を軸に解説するというもので、かなり貴重な体験ができた。以下、このイベントから刺激されたことも含めてメモしておく。
 大和田俊之『アメリ音楽史』にも書かれていたけれど、公民権運動と宇宙開発史は全く同時期にあって、それがアフリカ系アメリカ人たちにちょっと独特なアイデンティティを形成させる。宇宙開発、というか宇宙人という他者に抱く幻想は、ここではないどこかへの願望を託す先である。自分を規定する時間軸を、毎日の生活を支配するこの時間(歴史)だけとするのではなく、同時に別のものを用意して、自分という存在を捉える視軸を複数化してしまう。昨夜の対談においては、自分を土星人と言い切るサン・ラから、ギリシャ人になろうとするマイケル・ジャクソン、あるいはバグパイプを持ったアンドレ3000や、バルカン星人のハンドジェスチャーかますファレル・ウィリアムスまで、彼らは一様に他者を「偽装」(大和田俊之『アメリ音楽史』)し、自分へのまなざしをいくつも用意するのだという(ただ、この偽装は自分の身体に無自覚だということではないと思っている。偽装することによって逆説的に立ち上がるのは、むしろ自分の身体そのものの自覚である。身体に裏切られる前提が担保されているからこそ、むしろ積極的に偽装することができたのではないだろうか)。
 大和田氏によれば、アフロ・フューチャリズムはフューチャリズム(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E6%B4%BE)とは異なり、過去に未来を幻視する想像力のこと。これは個人的にはすごく自然に受け止められるのだけれども、乱暴に言ってしまえば、言語活動そのもののことではないかと思う。例えば昨日の出来事を思い出そうとするとき、僕らはそれをひとつの独立したエピソードとして捉えようとする。あるいは一本の映画を批評するときにひとつの見立てを作ったり、歴史を政治というテーマから読み解こうとするのも同様で、僕らはそのとき、そこにひとつのフィクションを練り上げる。一冊の書物が、どう考えても文字を一文字も変化させていないにも関わらず、あらゆる読解を許容せざるを得ないのは、つまり読む=書き換えを僕らが常にしているからである。アフロ・フューチャリズムを、僕はそういうフィクション化の力によるものと理解する。
 ヒップホップの四大要素といえば、DJイング、MCイング、ブレイキング、グラフィティだけれども、そう考えるとこれらは全て書き換え行為だということがよくわかる。自分にお構いなしにあらかじめ存在しているそれらを、自分の物語のなかの構成要素と見立て、書き換え、従属させていく。ラッパーとは、自分の物語の主人公の名前であり、彼らはラップすることでラッパーの姿を「偽装」するのだと思う。

◇それから、踊るという行為は、読む=書き換えと全く同じもので、聴くことと演奏することを同じ地平に見据えることだとも思う。ラップは、唇のダンスでもある。その意味において、踊る欲望を刺激しようともしない、鑑賞用のためだけになされるラップは、ラップではない。

SALU『IN MY SHOES』。聴いてるうちに、これはラップ曲というよりヴォーカル曲と言った方がしっくりくるような気がしてくる。ラップは、自らの身体を強く感じながら歌われるものだと思うからだ。自己と他者の区別を取り払おうとする歌唱とは逆のアプローチ。
 「字足らず字余りがグルーヴを生む」「複数秩序の単線上の叙述が訛りを生む」。いずれも、言葉を物質に変える際、つまり発声するときに、身体側の抵抗が引き起こす現象だろう。身体を徹底的にコントロールするのではなく、むしろコントロールしきれない部分とどのように折り合いをつけるか。その試行錯誤がグルーヴを生み、聴くものの身体を踊らせる。ラップは、彼自身の身体の痕跡をレコードの上に刻み付けることで、それを聴く他の誰かにラップを促す。これはリリックが基本的にはラッパー自身の手によって書かれ、彼自身にのみ歌われることを前提としていることとも密接に関わる話だと思う。
 さて、その視点で見ると、SALUが人類愛をテーマに巨視的な視点でリリックを書くということについても回答が出そうな気がする。SALUのラップは、身体をほぼ理想通りにコントロールしたところに成り立っている。それはラッパーのラップというよりも、優れたヴォーカリストの超絶技巧に近い。符割とブレスを自在に操って刻んでいくリズムは不安定な揺らぎを孕まず、つまり彼の身体は、彼にとっては完璧に制御可能なツールとなる。決して身体の側が彼の予想を裏切ることはない。だからこそ、SALUのリリックにおける主語はSALU本人から離れ、人類そのものにまで拡張することも出来るのである。

 ラップが切り開いてきた歌唱技術を、従来のポピュラー音楽の図式に当てはめて応用したという意味において、ひとまずは優れたヴォーカリストの誕生を喜ばずにはいられない。今後のSALUが、この圧倒的なスキルを持ってしてラップそれ自体の可能性をどんどん開拓するラッパーになっていくことを期待する。