web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後6時半。窓越しの風、踏切の音。

◇近くにバスの車庫があるのだけれど、そこでバスの転回を誘導するホイッスルも聴こえてくる。

◇近所の公園でお祭りがあるので、妻は待ってましたとばかりに息子用の甚平を取り出してきて、ついでに僕の分も用意した。となれば妻も浴衣を着るのかと期待したが、この家には持ってきていないのだと言う。がっかりしていると、息子は息子で紐を引っ張って、着慣れぬ甚平を脱いでしまう。僕が結っては息子がほどきを何度か繰り返しているうちに、甚平がイヤなのではなく、そういえば息子は紐が大好きなのだと思い出した。ごまかしながら、なんとか祭りスタイルで出掛けることに成功した。
 買い物で疲れてしまったので、結局祭りに行かずに帰ってきた。妻はどうやら、息子に甚平を着せることができただけで満足している様子。

◇水泳は45分1950メートル。さすがに混んでいたけれど、ルーフが開いて屋外仕様になっていたので、気持ちが良かった。この市民プールを、密かにセンターコートと名付けることにした。元ネタはもちろんウィンブルドン

◇昨日は家族三人で多摩動物公園へ。
 予報では雨のち曇りとあったけれど、実際はよく晴れた。日陰によけて風に当れば涼しささえ感じる。まだ夏は来ていない。
 この日は今年5度目の入園だったので、息子のスタンプが五つになった。大人が年間パスポートを購入すると、その子供にはスタンプカードが配られ、一回の来園毎にひとつずつ、5個貯まるとプレゼントがもらえるという仕組みになっている。プレゼント用ガチャガチャを妻が回すと、プラスチックボールのなかには缶バッジが入っていた。ニホンザルの親子の写真が貼付けられている。よく見るとどうやら係員の手作りらしかった。

◇数日前の話になるのだけれど、口当たりが良いのか、息子はしきりに「あちぇあちぇ」と発声していて、そんな風に特徴的な発音を反復するうちに、こちらとしてはそれがどうにも言語のように聴こえてきてしまう。当然、息子にとっても「あちぇあちぇ」がコントローラブルな発声なわけだけれど、最近はどうやら制御できる発音のバリエーションを増やしているようで、一頃に比べれば「あちぇあちぇ」の割合は減っている。すると僕は再び、息子が言語を話しているとは思い難くなる。音が言語になるまで、両者の共通了解の設定を巡って、こうしたことが繰り返されていくのかもなあと思う。

古谷実サルチネス』。なにやら正しく『僕といっしょ』の続編になっているかもしれない。イトキンやすぐ起が上野に戻ったあと、再び家出をしなかったとは考えられない。「人生って何?」という問いは、何度でも、どのようにでも繰り返される。それはちょうど、『ドラゴンヘッド』のノブオが、ことあるごとにテルのなかに蘇るのと同様である。

高畑勲おもひでぽろぽろ』。恥ずかしながら初めて観たのだけれど、なんて面白いんだろう! 吃驚した。
 27歳の女性が、小学五年生の記憶――ささやかな恨みや後悔の記憶を“なつかしい”田舎の風景のなかに大爆発させる、と、こう書いているだけで恐ろしくなる物語。僕のなかの童貞が、なにか異常な怯え方をしている。
 タエコは人当たりの良い、どこにでもいそうな女性のように描かれている。その辺りの説得力が強力なために、皆多かれ少なかれあんな感じにささいな恨みや後悔を鮮明に覚えているのではないかと、容易に想像できてしまうことが何より怖かったりする。しまいには、ジブリキャラにも関わらず、27歳にしてくっきりと描かれてしまったタエコのほうれい線にまで怯え出す始末。記号的な処理ではないのに、リアルな記号になっちゃってる。
 ところで劇中、タエコを迎えに来たトシオが、ハンガリーの百姓の音楽だといってこんな曲(→http://youtu.be/CM8A7Sc86PY)をかけるのだが、それ以降、東欧の音楽がたびたび挿入されることになる。そのなかに、こんなものまで混ざっている。

明らかにロマな曲調で、調べてみるとやっぱりルーマニアパンフルート奏者の作曲らしい。不勉強な人間としては、やっぱりロマ=流浪の民という連想に短絡してしまい、ルーマニアの農業とロマの関係性まではわからない*1。そんな僕には、ハンガリーの百姓もロマもいっしょくたに、山形の風景と折り重なっているように思えてしまう。そして、それは案外それで良いんじゃないかとさえ思う。つまり百姓の音楽か否かというよりも、異郷のなかの郷愁、という効果をなすことの方が重要で、タエコの視点もそこに沿っているのではないか。さらに踏み込んでしまえば、ハンガリーの百姓の音楽としてあの曲を需要するトシオも割と怪しい。なぜなら彼は実は脱サラして有機農業に理想を見出す、ある種の都市的な視点を持っているからだ。田舎に住む都市の人間として、タエコと農村を媒介し、さらにはタエコのなかの田舎を誘発する。ついに二人の関係が反転するとき、劇中にはこんな音楽が流れる。

bette midler『the rose』を、和訳して都はるみがカバーしたものだけれど、血肉化というよりは、あるフォームが引き金となって、内的自然を暴発させているようなニュアンスかもしれない。ちなみに、都はるみといえば『パッチギ』で、たしか主人公グループのひとりの親父が『アンコ椿は恋の花』を好んで聞いていた。

◇QN、なんてラップが巧いんだろう。

*1:知ってる方、居ましたら教えてください

SIMI LAB内紛に端を発するビーフ考

 先日、similabの一件に菊地成孔が入ってきたらしい、ということを書いたけれど、菊地氏ご自身のブログで、そのことへの追記がなされていた。フックアップもしていただき、大変感謝(→http://www.kikuchinaruyoshi.net/2012/06/12/simi-lab%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E8%BF%BD%E8%A8%98/)。
 similabの二人についてもさることながら、音楽家×批評家×リスナーの三者が固くこわばったままコミュニケーションを閉ざしている、という話にも刺激を受ける。この三者が活発な応酬を行うためには、それぞれの役割は流動的なものである、という(自明の)前提を共有している必要があると思うのだけれど、現在、三者は全く別種の人間であるかのような物言いをよく見掛けるような気がする。
 最終的な結果として、作品を提出する/評する/聴取する、という行動が立ち現われるものだけど、それまでには当然、創作/批評/聴取のいずれをも通過しているわけで、この三つは常に密接に関係し合う。音楽家/批評家/リスナーという自称は、言葉で恣意的な線引きを施すことでアイデンティティを形成する試みであり、つまりこれらはひとりの人間を三つの角度から撮影するようなものだと思う。
 ただ、個人的な印象として、そういう理解が一部では全くなされていないような気もする。SNS別にアカウントを作って、それぞれに別の人間関係を形成してコミュニケイトするような、いわゆる「クラスタ」的想像力は、ひとりの人間を多角的に撮影した後に、再構成するんではなく、散らばったまま別の人間として捉える、という感覚を用意したのかもしれない。音楽家は音楽を作るだけであり、批評家は提出された作品を評するだけ、リスナーはただただ口を開けて聴くのみ、といった、なんとも単純な分割をいたるところで目撃する。曰く、批評家は音楽家を理解できない。曰く、批評はリスナーの感想文に非ず。これらの命題について正しいか否かの議論は別の問題として大切なものだが、少なくとも、これらが稚拙な感情的賛同を集めている様子を見るたびに、そりゃグレーゾーンを許容する余裕もなくなるよな、と妙に納得させられてしまう。
 ところで、この戦争拒否と戦争飢餓の話。「活発に議論がなされる状態とは、“闘争的であるが故に平和的”という意味において“戦争拒否”である」「閉じこもった内側でのみ語り、コミュニケーションを拒絶することは、あらゆる社会的な問題をも個人の恨みとして表出せざるを得ない、“戦争飢餓”である」。ここでいう「戦争」とは同時に「祝祭」でもあるが、祭りの場にはダンスがあるということにまず注目したのが、「ビーフ」じゃないだろうか。
 おそらくダンスは、聴取と批評を同時に行い、なおかつそれをひとつの演奏として提出するものだけれど、そう考えると、唇のダンスであるラップが、音楽家/批評家/リスナーという役割を再び流動化させる「ビーフ」という祭りを引き起こすのは、ごく自然な成り行きだと思えてくる。どんな立ち位置からも参加できるビーフという祭りの場においては、参加者によってルールがその都度形成/変更され続けており、つまり常に新しい身体の使い方が発見され続けている。ジャズメンであると同時にひとりのリスナーとして批評的な私信を放つラジオパーソナリティのように、あらゆる立場の境目に揺れることは、それぞれの役割に「とは何か」を問い、同時にその隙間に埋もれていた言葉/身体を顕在化する。はっきりと、僕はそれを可能にするフレッシュなムーヴが生まれる瞬間に期待しながら、ラッパーの動向を観察しているのだと自覚した。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120617より抜粋

午後6時。傘を買う。

◇妻と同じもの。女性向けサイズかもしれないけれど、とんぼ柄がユニセックスで僕も使えそうなので、色違いで購入。

◇昼間に買い物に出ると、帰宅時には部屋が西陽で火照っている。窓をあけて部屋に風を通すと、妻が夕食の仕度にとりかかり、その間僕はいたずら息子の見張りを受け持つ。という名目で、熱の抜けきらない部屋で二人、ぎゃあぎゃあ騒いでいた。
 麦茶の入ったストローマグを振り回しながら、一口飲んでは雄叫びをあげ、また一口飲んでは大爆笑を繰り返す息子の姿を眺めていると、飲んだ分が即、汗とよだれと消費カロリーになっているのではないかと思う。けらけらと大きく開けた口を覗き込むと、一本の白い歯が顔を覗かせていた。ほんの点みたいな歯である。

◇水泳は50分2000メートル。泳ぎ始めから結構飛ばしたので、内心2100ぐらいはいけるかな、と思っていたのだけれども、結果はなんとかギリギリ2000に乗ったという感じ。泳後のシャワー中は、力尽きてしゃがみこんだ。

◇先日、similabの一件に菊地成孔が入ってきたらしい、ということを書いたけれど、菊地氏ご自身のブログで、そのことへの追記がなされていた。フックアップもしていただき、大変感謝(→http://www.kikuchinaruyoshi.net/2012/06/12/simi-lab%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E8%BF%BD%E8%A8%98/)。
 similabの二人についてもさることながら、音楽家×批評家×リスナーの三者が固くこわばったままコミュニケーションを閉ざしている、という話にも刺激を受ける。この三者が活発な応酬を行うためには、それぞれの役割は流動的なものである、という(自明の)前提を共有している必要があると思うのだけれど、現在、三者は全く別種の人間であるかのような物言いをよく見掛けるような気がする。
 最終的な結果として、作品を提出する/評する/聴取する、という行動が立ち現われるものだけど、それまでには当然、創作/批評/聴取のいずれをも通過しているわけで、この三つは常に密接に関係し合う。音楽家/批評家/リスナーという自称は、言葉で恣意的な線引きを施すことでアイデンティティを形成する試みであり、つまりこれらはひとりの人間を三つの角度から撮影するようなものだと思う。
 ただ、個人的な印象として、そういう理解が一部では全くなされていないような気もする。SNS別にアカウントを作って、それぞれに別の人間関係を形成してコミュニケイトするような、いわゆる「クラスタ」的想像力は、ひとりの人間を多角的に撮影した後に、再構成するんではなく、散らばったまま別の人間として捉える、という感覚を用意したのかもしれない。音楽家は音楽を作るだけであり、批評家は提出された作品を評するだけ、リスナーはただただ口を開けて聴くのみ、といった、なんとも単純な分割をいたるところで目撃する。曰く、批評家は音楽家を理解できない。曰く、批評はリスナーの感想文に非ず。これらの命題について正しいか否かの議論は別の問題として大切なものだが、少なくとも、これらが稚拙な感情的賛同を集めている様子を見るたびに、そりゃグレーゾーンを許容する余裕もなくなるよな、と妙に納得させられてしまう。
 ところで、この戦争拒否と戦争飢餓の話。「活発に議論がなされる状態とは、“闘争的であるが故に平和的”という意味において“戦争拒否”である」「閉じこもった内側でのみ語り、コミュニケーションを拒絶することは、あらゆる社会的な問題をも個人の恨みとして表出せざるを得ない、“戦争飢餓”である」。ここでいう「戦争」とは同時に「祝祭」でもあるが、祭りの場にはダンスがあるということにまず注目したのが、「ビーフ」じゃないだろうか。
 おそらくダンスは、聴取と批評を同時に行い、なおかつそれをひとつの演奏として提出するものだけれど、そう考えると、唇のダンスであるラップが、音楽家/批評家/リスナーという役割を再び流動化させる「ビーフ」という祭りを引き起こすのは、ごく自然な成り行きだと思えてくる。どんな立ち位置からも参加できるビーフという祭りの場においては、参加者によってルールがその都度形成/変更され続けており、つまり常に新しい身体の使い方が発見され続けている。ジャズメンであると同時にひとりのリスナーとして批評的な私信を放つラジオパーソナリティのように、あらゆる立場の境目に揺れることは、それぞれの役割に「とは何か」を問い、同時にその隙間に埋もれていた言葉/身体を顕在化する。はっきりと、僕はそれを可能にするフレッシュなムーヴが生まれる瞬間に期待しながら、ラッパーの動向を観察しているのだと自覚した。

◇泣く。

もしかしたら、ラップMVの最高傑作かもしれない。コーヒーカップや観覧車、メリーゴーラウンド、考えたらジェットコースターもそう。遊園地の全ての遊具は、同じところをひたすら廻り続けて移動しない。遊園地がループするトラックと相似形を描くとき、遠くの女達への想いがラップになる。

SIMI LAB内紛 QN vs. OMSB

◇similabの内紛ビーフ。ツイッター上で意味深なツイート(https://twitter.com/professorQN/status/204604923474755585)を残したかと思えば、数日経って突如としてサウンドクラウドでOMSBをdisり始めたQN(http://soundcloud.com/simi-lab/omsbeef-qn)。これに対して、現在OMSBがアンサーを返すかどうかに注目が集まっている。
 と、要するにビーフとしてはまだなんにも起きていない状況。ビーフ好きのリスナー達も、来るべき盛り上がりに向けて様子見、といった感じなのだけれども、そんなさなか、ちょっと変ったことが起きている。この一件について、菊地成孔が入ってきたという。

内容的にはどうということはない、DCPRGのアルバムの共演者として、QNとOMSB両者の才能を間近に見た氏の見解なわけだけれども、面白いのはこれがラジオというメディアに乗っかった「私信」というスタイルを取っているということ。つまり、ラッパーがdisったりアンサーを返したりするのと同様に、菊地成孔は、ラジオパーソナリティとして、ヒップホップ・マナーに則った形で(つまりミュージシャン的に)、これに言及している。
 菊地成孔は、ジャズメンではあるが、ラッパーではない。しかしジャズとヒップホップの近似を指摘する氏としては、これに対して、ヒップホップ・マナーに則った形で介入していくのが筋だと考えたのかもしれない。ラップのような言葉の使用がジャズにないならば、氏の別の側面、つまりラジオパーソナリティという立場から、ここに入っていく。菊地成孔の「アンサー」は、単にQNとOMSBへの「私信」なだけではなく、メディア人という立場を駆使した、ジャズとヒップホップの「ブリッジ」である。この点は、実は一番見逃せないポイントだと思う。

◇内紛前のsimilab。超仲良い。

いきなりQNとOMSBのツーショットから始まるので、ついニヤけてしまう。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120603より抜粋。



◇本ブログにのみ追記。
 数日後、OMSBがサウンドクラウドに、一時的にデモ音源をアップしていた。『joke』というタイトルを冠したそれは、氏にしては珍しくラップ付きで、「気にしないで俺は俺の道を行く」的な姿勢も聴き取れる。ある意味ではQNへのアンサーとも取れるわけだけれども、しかしQNのそれとOMSBのこれを聴き比べつつ、僕はこのビーフを、トラックメイクもラップもできる二人による、純然たるヒップホップ勝負のように感じていた。
 ラッパーのビーフにおいては、リリックのメッセージ性を中心に、どちらがどれだけヘッズのプロップスを集めるかに焦点が当たりがちだけれど、今回は両者がどのようなビートでどのようにラップしたか、というセンスの側面での勝負が際立っていたと思う。その意味で、これまで僕がリアルタイムに観察できたビーフのなかでは、個人的にぶっちぎりのベストバウト。今後、ラップもトラックメイクもできる人間が増えていくことが予想される以上、ビーフがこのような「ヒップホップ勝負」になっていくことは充分期待できる筈。ますます嬉しい世の中になっていく。

◇追記の追記。(6月12日)
 僕自身うかつだったのだけれども、OMSBの『joke』がアップされたとき、ツイッター上ではこのような発言(https://twitter.com/WAH_NAH_MICHEAL/status/210190541370048512)があったらしい。付け加えておく。
 ただ、『joke』がこのビーフ以前に制作された楽曲だったとしても、僕自身の見解としては、QNからのdisがなければアップがなかったという意味において、そしてOMSB自身が言うように、それがそのときの氏の気分を反映しているという意味で、僕はこれを一種のアンサー=回答として受け取っておこうと思う。 

午前11時。青息吐息の水の中。

◇水泳は45分1900メートル。混んでいたとはいえ、さすがにこれはまずいんじゃないか。できたら来週も泳ぎに行って、体力をつけていきたい。

◇覚えたての胴タックルとマウントからの頭突きに、妻が泣いている。レフリーとしては止めに入るのだけれど、興奮冷めやらぬ息子は歯のない顔で大笑いしている。

◇今週は動物園には行かず、外出といえば土曜日に妻の実家で餃子を食べたのと、あとは近所の八王子駅周辺をぶらついたくらい。のんびりとした週末だった。
 息子は息子で家のなかを散策しまくっていた。ハイハイと掴まり立ち、おすわりさえ体得してしまえば、生活空間はかなり自由な遊び場になる。気に入ったものを見つけては、口に入れるか叩くかして大はしゃぎしているのだが、よく見ると特に長いものを口に入れる傾向がある。もしかしたら美味しさを測る指標のひとつに「長さ」という項目があるのかもしれない。

firefoxだと動画再生が重くなってきたので、google chromeを入れてみた。色々と便利なブラウザだと思う。

古谷実が新連載。タイトルは『サルチネス』。非常にワクワクする出だしだった。
 最近の古谷実作品に共通して見られる特徴の主人公でありながらも、彼の置かれている環境がどうも少し違う。というか、家族全体を話の中心に置こうとしているような印象。とすれば、思い出されるのは『僕といっしょ』。兄、妹、祖父というキャラクターの配置も、すぐ起、いく起(もしくは吉田あや子)、吉田の親父を彷彿とさせるのだが、さて、そう考えると、今回の主人公家族もまた疑似家族なのではないかと想像が膨らむ。もちろんまだ一話目を読んだだけなのでなんとも言えないけれども。
 古谷実は『ヒミズ』以降、生き物の名前をタイトルに冠している。ただ、もしも今回のこれが単純に「saltiness」、つまり塩気を指しているのだとしたら、ここ最近の流れとは違ったものを前に出していくという意図があるのかもしれない。

◇よく出来てる。

◇similabの内紛ビーフツイッター上で意味深なツイート(https://twitter.com/professorQN/status/204604923474755585)を残したかと思えば、数日経って突如としてサウンドクラウドでOMSBをdisり始めたQN(http://soundcloud.com/simi-lab/omsbeef-qn)。これに対して、現在OMSBがアンサーを返すかどうかに注目が集まっている。
 と、要するにビーフとしてはまだなんにも起きていない状況。ビーフ好きのリスナー達も、来るべき盛り上がりに向けて様子見、といった感じなのだけれども、そんなさなか、ちょっと変ったことが起きている。この一件について、菊地成孔が入ってきたという。

内容的にはどうということはない、DCPRGのアルバムの共演者として、QNとOMSB両者の才能を間近に見た氏の見解なわけだけれども、面白いのはこれがラジオというメディアに乗っかった「私信」というスタイルを取っているということ。つまり、ラッパーがdisったりアンサーを返したりするのと同様に、菊地成孔は、ラジオパーソナリティとして、ヒップホップ・マナーに則った形で(つまりミュージシャン的に)、これに言及している。
 菊地成孔は、ジャズメンではあるが、ラッパーではない。しかしジャズとヒップホップの近似を指摘する氏としては、これに対して、ヒップホップ・マナーに則った形で介入していくのが筋だと考えたのかもしれない。ラップのような言葉の使用がジャズにないならば、氏の別の側面、つまりラジオパーソナリティという立場から、ここに入っていく。菊地成孔の「アンサー」は、単にQNとOMSBへの「私信」なだけではなく、メディア人という立場を駆使した、ジャズとヒップホップの「ブリッジ」である。この点は、実は一番見逃せないポイントだと思う。

◇内紛前のsimilab。超仲良い。

いきなりQNとOMSBのツーショットから始まるので、ついニヤけてしまう。

午前9時。畳の埃を机に載せる。

◇ハイハイが一気にスピードアップして、掴まり立ちも随分安定してきた。自転車や自動車の運転、あるいはスノボやスケートと同様の、移動それ自体の快楽というものがあるのだと思う。身体をうまく乗りこなすことの気持ち良さ。

◇先々週、先週、今週と、ここのところ週末は多摩動物園に行っている。もうあと一回行けば、入場料の累計がフリーパスの金額と同じになる。
 入場ゲートをくぐる頃、息子はなぜか毎回決まって眠ってしまうので、入り口付近の動物はほとんど観ていない。親としては折角動物園に来ているのだからと思うわけで、起きた頃を見計らって、絵本でお気に入りのオランウータンやサイ、ゾウなどの檻の前に廻る。しかし彼にとっては動物園の生き物だからなんだといった具合で、動物を観るより檻の前の草などをじっと眺めている。あと何回回転すれば、それが自分の視点と気付くだろうか。彼が大人になる日のことを想像してみる。

◇おかげさまで『アラザルvol.7』は文学フリマでも相当数売れたみたい。今後、一般書店や通販などでも対応していくけれど(→http://gips.exblog.jp/18288716/)、正直在庫が厳しい様子。嬉しい悲鳴ではあるのだけれども。

◇批評とは何か系の議論は、自分が一体何をやってるのか把握しておきたいという欲望に突き動かされているのだろうけれど、当然のことながら、自分が何をしているかなんて問いに明快に答えることほど不自然なものはない。その意味において、非常に良い批評を書く人が意外に無垢な批評観を持ってたりすることは、なんだかんだ言ってあり得るかもしれないな、とは思っている。
 けれどしかし、やっぱり批評においては、ある種の天然な作家たちが行う自問自答よりも、ある程度自覚的な回答を用意しておく必要がある。もちろんそれは暫定的な回答でしかあり得ないけれど、しかしそれなりの批評観を設定しておかないと、対象となる作品とそれを観る自分の間に線を引くことができなくなる。この「線を引く」という行為そのものが、やっぱり批評を批評たらしめているんじゃないか。
 対象から受け取ったイメージを元手に創造することと、対象の持つイメージを丁寧に読解することは、全然違う行為だろう。前者が用意する豊かさは、対象が持ち合わせていたものとは限らないが、後者は、対象自体の持つ豊かさを読み取ることに勤しむ態度。僕は個人的に、後者を批評と捉えている。批評は作品とは異なって、それ自体で自律するものではなく、対象と合わせて立つ必要がある。
 対象を自分に血肉化するのではなく、あくまで自分の外側に置いておく。しかし、批評は記録を第一の目的としているのかと言えば、それもまた違うような気がする。いわゆるドキュメンタリなどについて、純粋な客観性を保持することはあり得ず、なんらかの恣意性が絶対に紛れ込んでしまう、という指摘はよく言われることだけれども、記録がその恣意性から可能な限り遠ざかろうとするのとは違って、批評は別にそのようなことをするわけではない。批評が行うのは、これは語り手である私の恣意性に依る、と堂々と宣言することである。
 つまり、私は対象にこのような輪郭線を引いた、というひとつの読みを提示する、ということ。それによって、輪郭線の外側に切り捨てられたものの存在を、その批評の外に感知することができるようになるだろう。そのような批評に立ち会ったとき、彼は再び対象を眺めようとする。自分にはどのような線が引けるのか、を問う余地が残される。

◇考えてみれば、セルフ撮りやらビデオチャットやらと地続きな「ガーリーラップ」が、今までなかったことの方が不思議に思えてくる。日本に置き換えれば、ニコ生アイドルとニコラップが合わさった状態かな。

ティーンアイドルがフリースタイルかます時代、こういう趣味のラッパー達はもっともっと当たり前になってくんだろな。

◇バリカンで髪を切った。坊主ではないセルフカットは初めてで緊張した(襟足は妻にやってもらった)けれど、なんとか格好はついたかも。

午後1時。動物園で雨を観る。

◇息子の生まれて初めての動物園は、あいにくの雨となった。
 朝から雲行きは怪しかったのだけれども、連休の合間であるこの日を外したらものすごく混むだろうということで、計画を強行。昼食中に降り始めた雨はその後ずっと止まず、結局僕らが帰るときまで降り続けた。屋外の雨宿りポイントから雨を眺め、移動しながら動物の濡れ姿を眺める一日。皆一様に似たような仕草をしていたのが印象的だった。

多摩動物公園は我が家から電車で数駅の距離にあるので、年間フリーパスというものを買うことにした。学生時代から結婚後まで、ここには何度もデートに訪れているが、今年から僕らには子供が加わったのである。利用頻度は更に上がっていくだろうと見越しての購入だった。そういえば息子は、母の胎に居るときに一度来たことがあった。あのとき、今日のような日を夢想しては、二人でニヤニヤとしたものだった。生まれて一人の人間として活動を始めた彼は今、一体どんな顔で門をくぐるものだろうか。少々感慨深くベビーカーを覗き込んでみると、清々しいほどよく寝ていた。

◇水泳は50分2000メートル。四月は一度も泳がなかったので、とにかく筋肉痛がひどい。とはいえ、2000メートルのペースは崩れていなかったので、ひとまずは安心。

◇久々のブログ更新になったけれど、アラザルの方は無事脱稿。校了も済ませ、あとは文学フリマまでに本が出来上がるのを待つのみである。
 それにしても、今回こそは絶対に間に合わないだろうと思った編集作業だった。締め切りギリギリまで粘る同人の原稿を、ほんの数時間程度で組み上げていくデザインチーム及び進行管理のdhmo。彼らの集中力はとんでもなく研ぎ澄まされたもので、だから多分これを続けてると、マジで死人が出るんじゃないかと思う…。

◇ヒップホップ、及びラップのことについて書いた連載エッセイ『ラッパー宣言』の第五回目を寄せました。「ラップは、歌というよりもダンスのイメージで捉えた方がしっくりくる」というところから話を展開させていきました。
 もひとつ、パブリック娘。のインタビューを掲載します。今年の三月に大学を卒業し、それぞれ社会人としての道をスタートさせた彼らですが、学生時代の活動を振り返るという意味でも、パブリック娘。の貴重な資料となると思います。言いかえればつまり、今後の彼らはますます凄みを増して行くだろうということ。期待してるぜ!
 というわけで、『アラザル7』は、5月6日の文学フリマで発売いたします。ブースは「オー38」。久々に分厚い21.5ミリ。500円。
 その他のページについては、アラザルブログの方で告知する予定です。そちらも併せて、よろしくどうぞ。