web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前3時。寝息と泣き声の入り混じる。

◇夜中に目を覚ました息子を、授乳以外の方法で再度寝かしつけるのが難しい。泣いているのを見るとすぐにくすぐって誤摩化したくなるが、興奮して完全に起きてしまっても困るので、静かに抱きかかえる。1時間半ほど泣き続けた後、自分から布団に横になって、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら寝た。

◇妻が高熱を出してしまった。どうも乳腺炎らしいとのこと。
 息子がおっぱいに歯を立てるらしく、授乳のたびに妻の悲鳴が聞こえる。傷口は深くなる一方で、そろそろ卒乳も考慮に入れなきゃいけない時期でもあるという事情もあり、最近は授乳回数を減らしていた。今回の乳腺炎は、そうした事情が影響してしまったらしい。
 妻が寝床に臥せっている間、僕は息子と気儘な時間を過ごしていた。

◇水泳に関しては、もう今年は行かない。年末になると「心機一転、来年から」という言い訳をするようになる。

◇『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。いい話だと思う。
 あの旧劇場版のラストについては、本当にびっくりしたと同時に疑問も覚えていた。簡単にいえば、何もそこまでしなくてもいいんじゃないか、ということである。あそこまでしなければならないというのは、むしろその問題に拘泥し続けていることの証拠であり、更に拘泥し続けるであろう担保にもなってしまう。
 旧劇場版のアスカが、あそこまで激烈な拒絶を持ち出さなければ他者性を持ち得ないのに対して、『Q』のアスカ及び作品世界においては、見知った顔の人間が知らない人間として振る舞う、という極めてまっとうな方法で他者が現れる。つまり「あの後シンジはどうした?」が、ごく自然な形でここから始まろうとしている。
 自分と母親以外の人間を他者と感じる子供にとって、他者は無力感を持ち込む存在でしかない。他者の存在を意識し始める時期の子供は、全能感か無力感かの二択でしか世界と自分を切り結べないからだ。無力感から逃れるために、全能感をのみ得られる世界に閉じこもろうとする者のことを、童貞と呼ぶ。戦闘ロボットや美少女フィギュアに熱中し、空想の世界に浸り切ることによって母との関係を無理矢理に続けようとする童貞は、全能感の有効な領域のなかで、自分自身を理想的な姿に作り変えようとするだろう。つまり、『Q』のなかで重要な要素は、エヴァ綾波という母との断絶、そして渚カヲルという理想化された自分の否定である。それによって、シンジは徹底的に途方に暮れ、正しく無力感を突きつけられることに成功する。
 だから、茫然とするシンジの手を引く『Q』のアスカは、他者として存在しながら、全能感と無力感の単純な対立の先へと誘う存在である。かつて、「貴方のお母さんではない」という身振りを強めていった挙句、ついに「気持ち悪い」と発言しなければならなかった人物と、14年の時を経て、断絶を深めることによって、逆にこれからの関係性を模索していくことができるようになる。そのようなごくありふれたことが、きちんとこの作品にも与えられたということに、少し感動してしまったり。

◇それにしても、かりそめではあったとしても、ひきこもれる(と思える)場所がある、というのは一種の贅沢な悩みにすら思える、というのが僕がエヴァに行かずに古谷実僕といっしょ』に行った理由ではある。

午前9時半。子に手を引かれる冬の道。

◇予報によると、土曜は朝から一日雨だという話だったが、まだ降り出していない。最近歩くことに楽しみを覚えた息子が玄関から靴を持ってくるので、雨の降り出す前に散歩に出掛けることにした。
 八高線を間近に見ることのできる遊歩道を、僕の人差し指を掴んだ息子がぐいぐい歩いていく。時折電車が通り過ぎる以外は、もうすっかり冬の風が木々を鳴らし、その合間に息子の声が聴こえてくる。力をこめた瞬間に漏れるかけ声なのか、何かに向けた呼びかけなのかはわからないけれど、僕は勝手に息子の声に応答している。ダイアローグともモノローグともつかない「会話」である。

◇すごく久しぶりの水泳は、新調した水着で挑戦するはずだった。受付を通り、着替えを済ませ、入水前のシャワーを浴びて、準備体操をしながらゴーグルをはめると、なにやら右目の感触がおかしい。見れば右目部分だけパッキンが外れており、その瞬間、数日前に息子がゴーグルをひっつかんでかなり乱暴に遊んでいたことを思い出した。
 なんだか塩素もキツく、水中で目を開けるとやたらしみるので、背泳ぎだけ10往復した。10往復で止めたのは、背泳ぎでは何度も人にぶつかるからだ。今日はもう泳ぐのを諦め、残り時間は水中歩行をすることにした。
 昔読んだ空手の本に、水中で前蹴りをするトレーニングがあったことを思い出し、水中で移動稽古をやってみる。珍しく顔を水の外に出しているので、このプールに飛び交う会話が聞こえてくる。親子連れが三組の他に、男二人がプールサイドをあまり離れずに会話していて、どうやら一方がもう一方に泳ぎを教えているらしかった。

◇今年逃した日本語ラップのアルバムを集めているんだけれども、本当に最悪なことに、punpeeのソロだけが手に入らない。高値でも手を出すか迷っている。それにしても、今年はソロの多い年だった。

日本語ラップシーンで今年ちょっと流行ったものに、『徳利からの手紙』(→http://soundcloud.com/leetok/jktuuupba4cc)がある。@leetok氏が、自身のツイートをトラックの上に読み上げる/ラップしたもので、形式はポエトリー・リーディング的、内容は自虐ネタに彩られた青春讃歌といったところなのだけれど、これが色々なアーティストにリミックスされている。DKXO『徳利からの手紙 〜GANJA REMIX〜』(→http://soundcloud.com/decayxodus/ganja-remix)やtofubeats『徳利からの手紙(social distance mix)』(→http://soundcloud.com/tofubeats/social-distance-mix-tofubeats)など、ヴォーカル部分をカットアンドペーストしているリミックスを聴くと、それぞれがどのようなイメージで音をつけたのかがわかりやすい。というか、この一連の楽曲群は、イメージの道筋を明確にするゲームなのだと見てもいい。リミックスという手法が本質的に持っている側面を、よりわかりやすく強調したものになっている。
 元ネタとリミックスの両方込みで出来上がっていく楽曲群全体が『徳利からの手紙』であり、元ネタへの評価は、その楽曲の完成度とは別に、新しいゲームの規範・ルールを作ってしまったという点からなされることになる。個々の楽曲の完成度よりもその差異に重きを置く態度とはつまり、リアルか否かを重視するヒップホップの姿勢のことである。
 リアルというのを単純に表現するならば、手触りがあるということである。ある作品に手触りを感じるとき、作品の持つコンテクストと自分の持つコンテクストは摩擦している。両者に差異がない限り、そもそも手触り自体が意識されない。

◇録音技術は、ベストテイクの追求に用いられもするが、と同時に、量産によってそのテイクを複数化する。そこではまず「顕在化したベストはもはやベストではないのではないか」という疑念が提出され、完璧という不可能性を担保することで、あらゆるテイクは序列化されようとする。しかしその一方でまた「そもそもベストは唯一でない」という回答も用意されており、受け取り手それぞれにベストの追求を任せることも可能である。リミックスは、後者の流れにある。ベストテイクを目指す競い合いよりも、むしろそれぞれのテイクが生み出していく差異に注目しようとする試みなのである。

◇圧力鍋で骨まで食べられるぶり大根を作ると意気込む妻の横で、ブログを書いている。書斎と台所が同じ場所にあり、ふすま一枚隔てた部屋には息子が寝ている。ときどき雄叫びをあげるので、そうしたときにはふたりでそっとふすまを開けてなかの様子を伺う。毎晩の、大体0時頃の我が家の様子。

◇明日の文学フリマでは、『アラザルvol.8』が先行発売される。僕は自分の論考『ラッパー宣言』はお休みさせていただいて、クロスレビュー企画で、Moe and ghosts『幽霊たち』、『アウトレイジ ビヨンド』について書かせてもらった。前者については、年末にもう一度触れ直す機会があるかもしれない。

午前1時。遠くの雨が駆けてくる。

◇やがて僕らの頭上を走り抜けると、秋の空気になっていた。

◇日曜日。八王子の神社で「泣き相撲」なる催しがあるということで、息子を出場させることにした。
 雨のなか受付を済ませると、妻と息子は祈祷のためにまた長蛇の列に並び、僕はビデオカメラを構えてテントで待つ。舞台の上ではどこかの相撲部の学生だろうか、白いマワシをつけたおすもうさんが四人並んでいて、それぞれ「泣き力士」たちを抱いて立っている。より激しく泣いた方が勝ちであるはずの泣き相撲だが、実際はほとんど、泣かせようとする行司となかなか泣かない力士との戦いである。行司が「はっけよい」と最初の声を挙げると、まずひとりふたり泣き出し、続けて「のこったのこった」と大声を張り上げながら、泣かなかった力士に迫っていく。最後まで泣かない力士も少なくなく、なかには満面の笑みで行司を眺める者や、最初から最後までおすもうさんの胸で眠り続ける力士まで居て、それぞれの将来を追って調べたい気にさせられる。取り組み毎に、泣きっぷりの良い力士に「優勝」が贈られ、最後まで泣かずに終わった力士には、声を嗄らした行司から「特別賞」が宣言されることがある。
 我が息子は取り組みまでの長い待ち時間に飽きてしまったらしく、ぐずるより先にしくしくと、既に小さく泣いていたそうだ。せんべいなどを食べさせながらなんとかやり過ごし、いよいよ大一番、妻の手を離れるや否や声を挙げて泣き出し、行司が第一声「はっけよい」と叫べば、負けじと声を高くした。息子の隣が「特別賞」狙いの力士で、行司はそこに向かって「のこったのこった」と気合いを入れるのだが、その声に息子は力の限り反応する。とうとう身をよじって反対側のおすもうさんの肩まで叩き、もはや「優勝」にしか興味がない様子であった。
 果たして息子は優勝し、我が家に戻ってからもその実力を余すところなく発揮している。

午前10時。子の昼寝、夫婦の二度寝。

◇息子は6時くらいに起きるとすぐに全力で遊び始め、朝の離乳食が終わるくらいまではテンションを維持する。息子が食事を終え、妻の胸元にしがみついて「デザート」をねだる頃が、大体僕の出社時間となるので、そのままうたた寝を始める平日の息子の姿を知らない。本日はそんな平日の母子のサイクルに、僕も参加させてもらった。

◇本日は息子の誕生日なので、半休を取ってお祝い。
 妻はホットケーキを、息子の食べられそうなフルーツとヨーグルトクリームでデコレーションして、見事なバースデーケーキに仕立てていた。数日前から数歩歩いていた息子だが、一歳当日の今日は10歩ほど歩いて、そんな祝いの声に応えている。

◇最近水泳に行っていない。まずい。これはまずい。

古谷実サルチネス』。単行本1巻が発売となっていたので、早速購入。古谷実作品は、同じテーマを何度も少しずつ変奏しながら、その度ごとに全力で回答を出していくものであるため、今のところ全作品をひとつの作品と考える作業が有効だと思っている。とりあえずここでは、作品史的な関係をちょっと整理しておく。ちなみに作品の発表順は、『行け!稲中卓球部』→『僕といっしょ』→『グリーンヒル』→『ヒミズ』→『シガテラ』→『わにとかげぎす』→『ヒメアノ〜ル』、そして『サルチネス』です。

◇主人公の中丸タケヒコは、前作『ヒメアノ〜ル』に出てきた平松ジョージという人物に似ている。『ヒメアノ〜ル』は、岡田→安藤→平松の順に人としてヤバい度合いが高まっていき、その果てには森田という決定的に「普通」を望むことすら許されないような人物が配置されることになるが、このうち、岡田と安藤までには彼らを救出する女性が存在する。つまり普通の側に入れるか否かの境界線は、安藤と平松の間に引かれているということになる。『ヒメアノ〜ル』が描き出した森田の顛末とは別に、おそらく『サルチネス』は、平松の物語を描こうとしているのだと、まずは考えることができるだろう。
 女性の登場によって普通の側に入れるか否かが決まるというモチーフは、『行け!稲中卓球部』における井沢と前野から何度も繰り返されているのだけれど、この二人の性格的な違いをもう少し明確にしたのが、『僕といっしょ』におけるイトキンとすぐ起であったろうと思う。イトキンは隙だらけですぐに誰かを頼るが、すぐ起は(少なくとも自分のなかでは)ストイックで妥協を許さない人間であり、後ろを見せることを何よりも恥とする。人に頼ることに恥を覚えないイトキンは、その後『グリーンヒル』のなかで幸せな家庭を築くことに成功したようだが、ではすぐ起は一体どうなったのだろうか。
 ある意味では、同じ中学生である『ヒミズ』の住田が、もうひとりのすぐ起として描かれていたとも言えるが、『サルチネス』は、より正しく『僕といっしょ』の“続編”めいた様子である。

◇今気付いたけど、『シガテラ』の荻野、『ヒメアノ〜ル』の岡田は、『僕といっしょ』のいく夫だったんじゃないだろうか。

閑話休題。「14のときからずっと家にこもって」いた中丸タケヒコの夢は、妹が立派な大人として幸せに生きることであり、物語はそれがすでに達成した後から始まる。最初に明らかになるテーマは、一度倒した筈の「“人生”という摩訶不思議な化け物」に今一度立ち向かう、ということである。早めに言ってしまえば、「自分が幸せにならない限り、身近な人を幸せにすることはできない」という裏テーマもここにはあると思うのだけれど、ともかくこの主人公は、妹の幸せを願う一方で、自分は妙な修行ばかりしている。それはつまり、自分自身の幸せへの希求は妹のそれと完全に同一化させているのだから、にも関わらず尚溢れ出る自分の欲望さえ抑えられれば万事うまく行く、という考えがあるのだと思う。ふと『僕といっしょ』のすぐ起がプロ野球選手になる夢を捨て、いく夫に全てを仮託している姿を想像してしまう。
 14歳の家出で幕を引いた『僕といっしょ』から数年、「14のときからずっと家にこもって」いた男が、再び家出をする。『サルチネス』の幕開けをそう位置づけてから、今後を観ていこうと思う。

◇このキャラクターの不気味さを、挙動ひとつで説得する松本人志が見事。

◇REV TAPE vol.1(→http://dopetm.com/2012/09/05/1928.html)が素晴らしい。いくつかレビューしたいものもあった。

午前0時。同じ寝相のふたつ影。

◇クーラーをつけても、結局風を通した方が気持ち良いってことが多い。

◇水泳は土曜日に。50分2050メートル。
 昼間は混むだろうと思ったので、夜行くと案の定ガラガラ。「センターコート」の屋根は夜にも関わらず開いていて、すっかり暗くなった空から夏の湿った空気が降りてくる。八王子はこの日花火大会で、打ち上げる音が水中にも届いていた。昼、ビールの誘惑に負けなかったことを誇らしく思った。

◇つたい歩きが大分楽しいらしく、息子はふすまの周りをぐるぐる廻ってきゃあきゃあはしゃいでいる。いままでハイハイで移動していた距離も、壁に手をついたり、妻や僕の足にしがみつきながら足を交互に動かして移動するようになった。ある方向へ向かっている妻から、別の方向に向かう僕へと器用に乗り移る姿が、なんとなく『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出させる。

◇FBのアカウントを実名で取り、それを仕事(ハスリング)用アカウントとしている。仕事柄、やっぱりどうしてもSNSを使うと楽なのでそうしているのだけれども、実名でネットを使う場合、かつての同級生/ネット上でのみやり取りする人/仕事の取引先/趣味の仲間/親戚など、様々なコンテクストを気にかけながら発言することになり、ネガティブに言えば「しがらみ」に捕われるということにはなるけれど、これはこれで面白いと思う。というか、発言中はあまりそんなことを気にしていないことに気付く。
 とはいえ、『ソーシャル・ネットワーク』を観てしまったせいか、やっぱりFBに童貞臭を感じてしまう。入会の際の異様なまでの実名“推奨”も話題になったけれど、こういった想定の範囲外を嫌うところや、しかしその内部はむちゃくちゃハイスペックで素晴らしく使い勝手が良いところなどを見ると、四畳半の内側に全てを配置する欲望が充満している気がしてならない。

◇ラッパーは、目の前に迫る、自分を追い立てる実名の時間を相対化すべく、別の時間軸に自分を用意する。普通に考えれば、実名の時間が「現実」で、別名の時間が「虚構」になるはずなのだが、しかしにも関わらず、別名でラップする際にはリアルが求められるのである。このことのひとつの回答として、「虚構」だからこそリアルを求めるのだ、というのもある。間違いではないけれど、でもそのままだとやはり言葉足らずで、「虚構」は「現実」の下位である、という主張の補強にもなり得てしまう。
 実名の自分が「素」で、別名の自分が「キャラ」を演じているわけではない。どちらも等しく自分であり、言ってみればどちらも「キャラ」を演じている。つまり、ひとつの、実名の時間にのみ身を委ねたままで居ると、それが「演じられた自分」であるという自覚を得ることはできない。別名の時間を立て、「虚構」のなかにリアルを求めることで、同時に「現実」のなかにもリアルを発見できるようになる。「現実」を無条件にリアルとしてしまう者は、そもそも「現実」のなかにリアルか否かという視点を持ち込まない。

◇「安東三」で作っていたアカウントは7月いっぱいで終了させ、新たにFBページとして「安東三」を作っておいた。http://www.facebook.com/and0h3

◇『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズ全話と、旧劇場版2作を観たせいで、多分こんなことを書いている。つまり本当の自分がどこかに居るという幻想は、大抵、居心地の良い空間に浸っていたいという欲求の表出だったりするのだと思う。

◇妻の実家で、妻が10ヶ月の頃の写真を眺めた。笑顔が息子とそっくりで、笑いがこみ上げてくる。結婚前から何度も見ている写真なので、妻の子供の頃の顔は知っているつもりだったが、あらためてアルバムを開かなければこのことに気がつかなかっただろう。日曜日に義父母と妻の誕生会を開いた際、息子を見ながら妻が乳児の頃を思い浮かべていた。

午後6時半。窓越しの風、踏切の音。

◇近くにバスの車庫があるのだけれど、そこでバスの転回を誘導するホイッスルも聴こえてくる。

◇近所の公園でお祭りがあるので、妻は待ってましたとばかりに息子用の甚平を取り出してきて、ついでに僕の分も用意した。となれば妻も浴衣を着るのかと期待したが、この家には持ってきていないのだと言う。がっかりしていると、息子は息子で紐を引っ張って、着慣れぬ甚平を脱いでしまう。僕が結っては息子がほどきを何度か繰り返しているうちに、甚平がイヤなのではなく、そういえば息子は紐が大好きなのだと思い出した。ごまかしながら、なんとか祭りスタイルで出掛けることに成功した。
 買い物で疲れてしまったので、結局祭りに行かずに帰ってきた。妻はどうやら、息子に甚平を着せることができただけで満足している様子。

◇水泳は45分1950メートル。さすがに混んでいたけれど、ルーフが開いて屋外仕様になっていたので、気持ちが良かった。この市民プールを、密かにセンターコートと名付けることにした。元ネタはもちろんウィンブルドン

◇昨日は家族三人で多摩動物公園へ。
 予報では雨のち曇りとあったけれど、実際はよく晴れた。日陰によけて風に当れば涼しささえ感じる。まだ夏は来ていない。
 この日は今年5度目の入園だったので、息子のスタンプが五つになった。大人が年間パスポートを購入すると、その子供にはスタンプカードが配られ、一回の来園毎にひとつずつ、5個貯まるとプレゼントがもらえるという仕組みになっている。プレゼント用ガチャガチャを妻が回すと、プラスチックボールのなかには缶バッジが入っていた。ニホンザルの親子の写真が貼付けられている。よく見るとどうやら係員の手作りらしかった。

◇数日前の話になるのだけれど、口当たりが良いのか、息子はしきりに「あちぇあちぇ」と発声していて、そんな風に特徴的な発音を反復するうちに、こちらとしてはそれがどうにも言語のように聴こえてきてしまう。当然、息子にとっても「あちぇあちぇ」がコントローラブルな発声なわけだけれど、最近はどうやら制御できる発音のバリエーションを増やしているようで、一頃に比べれば「あちぇあちぇ」の割合は減っている。すると僕は再び、息子が言語を話しているとは思い難くなる。音が言語になるまで、両者の共通了解の設定を巡って、こうしたことが繰り返されていくのかもなあと思う。

古谷実サルチネス』。なにやら正しく『僕といっしょ』の続編になっているかもしれない。イトキンやすぐ起が上野に戻ったあと、再び家出をしなかったとは考えられない。「人生って何?」という問いは、何度でも、どのようにでも繰り返される。それはちょうど、『ドラゴンヘッド』のノブオが、ことあるごとにテルのなかに蘇るのと同様である。

高畑勲おもひでぽろぽろ』。恥ずかしながら初めて観たのだけれど、なんて面白いんだろう! 吃驚した。
 27歳の女性が、小学五年生の記憶――ささやかな恨みや後悔の記憶を“なつかしい”田舎の風景のなかに大爆発させる、と、こう書いているだけで恐ろしくなる物語。僕のなかの童貞が、なにか異常な怯え方をしている。
 タエコは人当たりの良い、どこにでもいそうな女性のように描かれている。その辺りの説得力が強力なために、皆多かれ少なかれあんな感じにささいな恨みや後悔を鮮明に覚えているのではないかと、容易に想像できてしまうことが何より怖かったりする。しまいには、ジブリキャラにも関わらず、27歳にしてくっきりと描かれてしまったタエコのほうれい線にまで怯え出す始末。記号的な処理ではないのに、リアルな記号になっちゃってる。
 ところで劇中、タエコを迎えに来たトシオが、ハンガリーの百姓の音楽だといってこんな曲(→http://youtu.be/CM8A7Sc86PY)をかけるのだが、それ以降、東欧の音楽がたびたび挿入されることになる。そのなかに、こんなものまで混ざっている。

明らかにロマな曲調で、調べてみるとやっぱりルーマニアパンフルート奏者の作曲らしい。不勉強な人間としては、やっぱりロマ=流浪の民という連想に短絡してしまい、ルーマニアの農業とロマの関係性まではわからない*1。そんな僕には、ハンガリーの百姓もロマもいっしょくたに、山形の風景と折り重なっているように思えてしまう。そして、それは案外それで良いんじゃないかとさえ思う。つまり百姓の音楽か否かというよりも、異郷のなかの郷愁、という効果をなすことの方が重要で、タエコの視点もそこに沿っているのではないか。さらに踏み込んでしまえば、ハンガリーの百姓の音楽としてあの曲を需要するトシオも割と怪しい。なぜなら彼は実は脱サラして有機農業に理想を見出す、ある種の都市的な視点を持っているからだ。田舎に住む都市の人間として、タエコと農村を媒介し、さらにはタエコのなかの田舎を誘発する。ついに二人の関係が反転するとき、劇中にはこんな音楽が流れる。

bette midler『the rose』を、和訳して都はるみがカバーしたものだけれど、血肉化というよりは、あるフォームが引き金となって、内的自然を暴発させているようなニュアンスかもしれない。ちなみに、都はるみといえば『パッチギ』で、たしか主人公グループのひとりの親父が『アンコ椿は恋の花』を好んで聞いていた。

◇QN、なんてラップが巧いんだろう。

*1:知ってる方、居ましたら教えてください

SIMI LAB内紛に端を発するビーフ考

 先日、similabの一件に菊地成孔が入ってきたらしい、ということを書いたけれど、菊地氏ご自身のブログで、そのことへの追記がなされていた。フックアップもしていただき、大変感謝(→http://www.kikuchinaruyoshi.net/2012/06/12/simi-lab%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E8%BF%BD%E8%A8%98/)。
 similabの二人についてもさることながら、音楽家×批評家×リスナーの三者が固くこわばったままコミュニケーションを閉ざしている、という話にも刺激を受ける。この三者が活発な応酬を行うためには、それぞれの役割は流動的なものである、という(自明の)前提を共有している必要があると思うのだけれど、現在、三者は全く別種の人間であるかのような物言いをよく見掛けるような気がする。
 最終的な結果として、作品を提出する/評する/聴取する、という行動が立ち現われるものだけど、それまでには当然、創作/批評/聴取のいずれをも通過しているわけで、この三つは常に密接に関係し合う。音楽家/批評家/リスナーという自称は、言葉で恣意的な線引きを施すことでアイデンティティを形成する試みであり、つまりこれらはひとりの人間を三つの角度から撮影するようなものだと思う。
 ただ、個人的な印象として、そういう理解が一部では全くなされていないような気もする。SNS別にアカウントを作って、それぞれに別の人間関係を形成してコミュニケイトするような、いわゆる「クラスタ」的想像力は、ひとりの人間を多角的に撮影した後に、再構成するんではなく、散らばったまま別の人間として捉える、という感覚を用意したのかもしれない。音楽家は音楽を作るだけであり、批評家は提出された作品を評するだけ、リスナーはただただ口を開けて聴くのみ、といった、なんとも単純な分割をいたるところで目撃する。曰く、批評家は音楽家を理解できない。曰く、批評はリスナーの感想文に非ず。これらの命題について正しいか否かの議論は別の問題として大切なものだが、少なくとも、これらが稚拙な感情的賛同を集めている様子を見るたびに、そりゃグレーゾーンを許容する余裕もなくなるよな、と妙に納得させられてしまう。
 ところで、この戦争拒否と戦争飢餓の話。「活発に議論がなされる状態とは、“闘争的であるが故に平和的”という意味において“戦争拒否”である」「閉じこもった内側でのみ語り、コミュニケーションを拒絶することは、あらゆる社会的な問題をも個人の恨みとして表出せざるを得ない、“戦争飢餓”である」。ここでいう「戦争」とは同時に「祝祭」でもあるが、祭りの場にはダンスがあるということにまず注目したのが、「ビーフ」じゃないだろうか。
 おそらくダンスは、聴取と批評を同時に行い、なおかつそれをひとつの演奏として提出するものだけれど、そう考えると、唇のダンスであるラップが、音楽家/批評家/リスナーという役割を再び流動化させる「ビーフ」という祭りを引き起こすのは、ごく自然な成り行きだと思えてくる。どんな立ち位置からも参加できるビーフという祭りの場においては、参加者によってルールがその都度形成/変更され続けており、つまり常に新しい身体の使い方が発見され続けている。ジャズメンであると同時にひとりのリスナーとして批評的な私信を放つラジオパーソナリティのように、あらゆる立場の境目に揺れることは、それぞれの役割に「とは何か」を問い、同時にその隙間に埋もれていた言葉/身体を顕在化する。はっきりと、僕はそれを可能にするフレッシュなムーヴが生まれる瞬間に期待しながら、ラッパーの動向を観察しているのだと自覚した。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120617より抜粋