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ビートでバウンス 唇がダンス

瀬田なつき監督『彼方からの手紙』はマジで必見!!

 前回のBRAINZ授業後、佐々木さんから『彼方からの手紙』という映画の情報をいただき、本日観に行って参りました。僕はこの映画に関わった人間でもなんでもありませんが、あつかましくもオススメさせていただきます。「ここではないどこか」を夢想したことある方は、絶対に観た方がイイと思います。

「ここではないどこか」を夢想した経験のある方、川に惹かれたことってありませんかね?僕はあります。やっぱ「身近にあるこの川が海につながって、世界中に繋がるんだあ」っていうのは結構ドラマを感じてしまうんでしょうね。
 ただ、この映画の元ネタであるスチャダラパー『彼方からの手紙』には、「川」の未来を見届けようと思い立っても、結局どうでもよくなってしまう「僕ら」の様子が描かれていました。それは、「結局どこ行ったっておんなじなんだよね〜」っていう一種の閉塞感と諦観だったわけです。
 スチャダラ版『彼方からの手紙』、どんなイメージが浮かぶでしょうか?僕の友人には「死後の世界」っぽいイメージが浮かぶっていう人も居ました。確かにそんな気もします。あの歌に歌われる諦観は、希望を持たない穏やかな生の奨励です。つまり「僕が生きてても死んでても誰も気付かないんだよ〜」っていうわけで、「彼方」っていうのは死後の世界とも取れるわけです(「案外桃源郷*1なんてのはここのことかなってちょっと思った」)。
 しかし、スチャダラは生きています。これを矛盾なく受け止めるために、こういった理解ができると思います。
 「積極的には生きない。けれども、消極的だけれども生きていく。」自分的には生きてたって死んでたって構やしないけど、まあ生まれて生きてるってのが現状だから、とりあえず生きていくか、と。

 さて、映画版『彼方からの手紙』の宣伝です。この映画は、スチャダラ版のメッセージを引き継ぎつつも、ちゃんとそこにアンサーを出しています。
 スチャダラは諦念の境地みたいなリリックを書きながら、同じアルバム(3rd『ワイルド・ファンシー・アライアンス』)の中で政治的なリリックも書いています。つまりそれは、「とりあえず」であっても「生きていく」と選択した瞬間から発生する、他者と付き合っていく上での「責任」みたいなものです。映画が扱っているのは、スチャダラが描いていないこの部分です。
 「積極的には生きない。けれども、消極的だけれども生きていく」
 →「責任を持って生きていく」
 スチャダラがはしょったその「→」を、瀬田なつき監督はどう描いたのでしょうか。
 気になる方は、5月26日、21時10分に渋谷のユーロスペースへどうぞ。あ、立ち見になるくらい人気なんで、早めがいいと思います。

 あなたは、どこに「彼方」を見ますか。(←なんてねw)

ここから下はネタバレも含まれますので、映画観てない方はご遠慮くださいませ。
 

 
 
 
 
◆結構ネタバレがある作品なんで、もう一回言いますが、もしこの映画見たいっていう方は読まないでくださいね〜
 
 
 
◇まあ、忘れないようにメモです。

◇主人公の男の勤め先、観た瞬間に「あ!絶対あれ不動前!!」って思って、続けて出てくるコンビニも「あ!!あのヤマザキショップ、絶対不動前!!」って思った。僕の高校が不動前だったので、確信を持っていたわけ。ところが、そのヤマザキショップのドアには天王町って書いてあって、その後からは確かに結構相鉄線沿線っぽいシーンが続いて、「絶対不動前!!」って思ったのは間違いだったかもって思った。
 エンドロール、確認してみたらやっぱあれは不動前で、なんだか場所の雰囲気とかって、どこいってもおんなじに見えるなあって。
 で、品川辺りから車で行って、羽田空港に来るんだけど、つまりこの作品で重要な「川」の終着点から飛行機が出ている。んで、飛行機をバックに車→自転車→徒歩っていう風に画が変わっていくところにも意志を感じた。
 正直、途中までは、要所要所で入ってくる「日常を楽しむ」演技に不自然なものを印象を受けたんですが、いや、まあ例のネタバレシーンは凄かった。あそこで一緒に踊る男を観たときに、ぶわーっと涙が出てきて、立見だったから手すりの下で座ってる人の頭に涙とか鼻水とか落ちないようにするために必死でティッシュを探してしまった。
 んで、これで踊り疲れておしまいだろうな、確かに『彼方からの手紙』の映画版だな・・・って思ってたらまだ作品は続く。ん?どこまで行っちゃうの?って思ってる内になんとスチャダラへのアンサーになってるわけで、いやこれは素晴らしい!!と。
 ヒミズシガテラのラインですね。自分は居ても居なくても変わらないんだし、「無理に不健康になることもない」(by『行け!稲中卓球部』最終話)わけで、だから消極的だけどとりあえず生きていく。積極的に生きることも積極的に死ぬこともしないから、消極的に生きるか消極的に死ぬか。とりあえず今は生きているので、現状をそのまま伸ばして生きていく。しかしその「とりあえず」生きていくっていう選択は他者と関わることなわけで、「責任」(という目標/モチベーション)が絡んでくる。そんな「責任」の源泉に、シガテラの荻野は「南雲さんを超幸せにする」っていうものを用意した。この『彼方からの手紙』という映画もそう。

◇でもね、映画『彼方からの手紙』もそうだし、他にもよく聞くけれど、自分の唯一性を受け入れるっていうのは、子供を出したら説得力が低くなる気もするんですよ。少なくとも僕はそう感じたりする。だって、そこには「血縁」っていうのがあるから。「血縁」という根拠などない「赤の他人」と関係を築きあうっていう方が、僕は強い意志を感じる。シガテラの素晴らしさね。

◇あと、自分も「川」の源泉になっているっていう感覚、すごくいいです。
 恥ずかしながら僕が高校三年生のころに書いた処女小説にも、「川」が出てくる。今思うといい作品だなw。もちろんいろんな意味でダメダメな作品なんだけどさ。

*1:陶淵明漢詩では、そこは「あの世」です