web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後9時半。隣の部屋の勝負の行方。

◇息子を風呂に入れるのは僕の仕事だけれど、寝かしつけるのはおっぱいのある妻である。妻はNHK『ニュースウォッチ9』のお天気キャスター「井田さん」が好きで、お天気の時間までに息子を寝かしつけられるかがひとつの勝負になっている。今夜は妻の勝ちだった。

佐々木敦未知との遭遇』。
 個人的に一番好きなのは、多重人格についての記述。解離性同一性障害というと、どこかにあるべき唯一なる真実の私(同一性、アイデンティティ)を担保するような言い回しだけれど、佐々木さんはあえてそこに多重人格の語を充てることで、複数の私というイメージを喚起しようとする。
 どこかに唯一の本当の私があって、それが自分の振る舞いの根底にあるといった感覚は、一種の自分探しやらここではないどこか幻想を用意するのだろうけれど、そうではなくて、私というものがそもそも複数居るのだと考えること。それは例えば、ここではないどこかを求める気持ちの裏返しとして噴出してきた、ここしかないからここを幸福だと認めなければいけない、などといった卑屈な現状肯定への防御策としても機能する。何より、現状を書き換えるために必要不可欠な態度のことではないだろうか。
 自分を複数化するというアイデアは、逆を言えば身体自体はひとつしかないという身も蓋もない現実を強化してもいる。ここでいう身体とは、自分の意のままに操ることのできるものではなくて、自分の意図せざる方向へと突然動き出すもの。それこそ『英国王のスピーチ』でいうところの吃音を引き起こす身体であり、言い換えれば、これはつまりひとつの現実そのもののことである。ひとつの身体に対し、ひとつの私だけで、他の私を否定しながら応答しようとすると吃ってしまうが、複数の私をもってそのまま応えると、訛りのグルーヴを生みだす。吃りそうになる身体を、押さえ込むのではなく、「もーしょーがない!」とでも認めて解放すること。これが現状を書き換えるということである。
 つまりまあ、呆れられるかもしれないけれど、僕はもう馬鹿みたいに単純に、ラップすれば全部上手く行くと思っている。ラップは、ひとつの口で複数の秩序を叙述する訛りであり、現在から過去を捏造してしまう演説であり、録音の担保によって逆説的に発生する即興演奏であり、日常を自分のものに書き換える手段である。佐々木さんの言い方に倣うならば、「多重人格」を支え、「過去物語り」を可能にし、「自分の運命を受け入れる」インプロヴィゼーションであり、「未知との遭遇」をもたらす、極めて現実的なツールのことではないだろうか。
 それと、蛇足のようで実は蛇足でないことを少し。ラップがまた、言葉の手触りに注目して韻を踏むダジャレであることを考えると、佐々木敦さんが本書においてひたすらダジャレを連発し続けることの意味も充分に理解することができる筈。

◇今更だけど、zeebra伊集院光ビーフについて、ちょっと触れておきたい(→http://togetter.com/li/260648)。ヒップホップ側から読むと、ジブさんの態度には相当の疑問が残る。
 何かについて必死になっている人間を嗤う態度について、ジブさんはそれを、出る杭を打つ「島国根性」と言い放つ。それが「中二病」の解釈として正しいかはまた別の問題として、その主張自体には僕も全面的に同意する。だがしかし、このビーフで重要なのはそういった議論の中身以前の話であり、ジブさんはこれとは別の意味で「島国根性」を体現してしまった、というところだと思う。言葉のオリジナリティがどこにあるのか、完全に見誤っている。
 有名な例として、ニガーという差別用語を挙げてみる。これはアフリカ系アメリカ人に向けた蔑称とされる一方で、ヒップホップコミュニティおいては自称とされる。この奇妙な変換の根底にあるのは、その語の語源に立ち返って最初に言い出した人物を糾弾する姿勢ではなく、むしろ積極的にその語を使用することによって自分たちのものに書き換えてしまおうという態度である。言葉のオリジナリティは語源にあるのではなく、使用する側にある。これがヒップホップの(ひいてはアフリカ系文化*1に連綿と続く)理解の仕方だった筈だ。
 さて、これを踏まえた上でジブさんの言動を見ると、ラッパーを名乗る人物とは思えないほど取り乱しているように思える。中二病と揶揄するような心性を嫌ったとして、それを語源に立ち返って批判する彼の顔は、ラッパーというよりも勤勉な優等生aka世間知らずのおぼっちゃんのそれである。ラッパーを自覚的に名乗るのであれば、中二病という言葉を積極的に使い、語の意味それ自体を変えようとするだろう。思えばzeebraという人物は、日本のヒップホップシーンの創成にあたって、アメリカのそれを必死に勉強する優等生であった。その意味において、彼はラッパーではなく、善き紹介者でしかない。海の向こうに憧れるのは島国の美徳ではあるけれど、憧れるだけで満足できるのならば、ラッパーとしての欲望が淡泊だと言わざるを得ない。
*2

◇最近の話だけど、ウォッカの美味しさに驚愕した。冷凍庫で冷やしておいて、とろとろになったものをストレートで飲むと震えるほど美味い。ショットグラスなんて洒落たものはないので、日本酒用のお猪口に注いで一気に飲み干す。
 贅沢には集中力が必要で、それは決して楽することではない。

◇今日の昼間、息子は妻を連れて行きつけの子育て支援センターに行き、紙芝居を観てきたらしい。ただ、普段読む絵本とはやはり勝手が違うようで、紙芝居に熱中する諸先輩方の方が気になったとのこと。専ら家のテレビで映画を観ていたせいで、映画館に居心地の悪さを感じた自分の体験を重ねそうになるけれども、妻によれば息子はそのうちその場で寝てしまったらしいので、これは安易な自己投影だったと知る。

*1:例:「物騙る猿」--大和田俊之『アメリ音楽史

*2:少林寺に憧れるあまり、自らの出身地を「シャオリン」と呼んでしまうウータンクラン

午後10時。ストーブの上の薬缶の吐息。

◇息子が寝静まった後、ふたりでぽりぽりと柿の種をかじる。というか、妻は柿の種を噛まずに飲みこむのが好きらしく、彼女がかじるのは専らピーナツの方。嬉しそうに柿の種をごくんと飲みこむ妻の姿を不思議に思って「柿の種 飲みこむ」でググってみると、こういう食べ方を好む人は一定数居るようだった。

◇もう先週の日曜日になるけれど、水泳で新記録を達成したので書き残しておきたい。50分2300メートル。一分一往復のペースで2000メートル泳いだので、残りの10分間は左息継ぎの練習に充てた。左右どちらからでも息継ぎできなければ、まだまだクロールが泳げるとはいえない気がしてきた。

◇ラップのフロウについての菊地成孔氏の考察が面白い。もっとも、これは氏が以前から『憂鬱と官能を教えた学校』などでも言及しているリズムの訛りの問題で、特別目新しい更新があったわけではない。けれどもラップという日常口語に近い表現形式を例に取ると、それがアナロジーでもなんでもなくて、本当に訛っているというのがよくわかる。
 複数秩序を単線上に叙述しようとすると、訛る。その訛りこそがフロウを生むというのが菊地成孔氏の主張で、これは多分、桜井圭介氏の言う「切羽詰まった身体」と同根だと思う。トム・フーパー英国王のスピーチ』は、吃音持ちの王ジョージ6世のスピーチを扱った映画だったけれども、あそこでは王家の秩序と自身のリズムという二つの秩序を、ひとつの口からどのように発するかが描かれていた。つまり、複数秩序を単線上に叙述しようとすると、訛るか、もしくは吃るのである。両方とも同じものだけれども、吃音の制御不可能性それ自体の制御、つまり制御できないことを容認したうえでそのまま話すと訛りになる、ということだろう。それは、矛盾を孕んだまま、どちらの秩序も否定することなく曖昧なまま飲み込んでしまうことでもある。
 ラップにおける執拗な押韻は、実はその矛盾を飲み込むためのエンジンなのではないかと思う。
 韻は、言ってしまえばダジャレのことである。切羽詰まった身体としてのダジャレ、というのもたしか桜井圭介氏が言っていた気がするけれども、何も言うことがないのに何か言わなければならない状況に置かれたとき、つい口をついて出てしまうダジャレというのは、受け取った言葉を充分に意味レベルにまで咀嚼してから返すのではなくて、言葉の外殻、つまり音に反応することである。言葉を充分に抽象化する時間を与えられないまま無理矢理に飲み込もうとすると、まずは具体的な手触りにその注意が払われる。飲み込むために施された押韻が、揺らぎを孕んだフロウを可能にする。

◇ラップは唇のダンスである。

◇やってみるとよくわかるけれど、実は韻を踏まないリリックは難しい。数文字で踏むよりも、子音や一文字だけで言葉にアクセントをつける方が、縛りが緩い分、適切な選択に迷う。ジャズにおけるコードとモードの違いも、もしかしたらこれと似ているのかもしれない。

◇息子はもう自在に寝返りは打てるようになったのだが、寝返り返りがまだできない。かといってうつぶせの状態が嫌なのかというと必ずしもそうではなく、とうとう今日はそのままひとりで寝てしまったらしい。段々とひとりでできることが増える。

午後5時半。膝から昇る寝息を聴く。

◇手を伸ばして届くか届かないかの距離に読みかけの本があったのだけれど、姿勢を変えられずに寝顔を眺める。

◇昨日の朝から息子に少しだけ咳と鼻水があり、念のため、いつも予防接種を受けている医院にかかった。万一のためにRSウイルスの検査もしてもらったけれど、とりあえずそれについては大丈夫そうで、抗ヒスタミン剤の入った薬をもらった。39度を超えるときは服用しない方が良いらしい。息子はここの医院の先生(雰囲気がキャシーベイツの人懐っこいときに似ている)が好きな様子。風邪気味なんですと訴える両親をよそに、診察時間中ずっと笑っていた。

◇なんだか、ブログの更新が隔週になってきた。そして水泳も隔週になってきた。一週間置きに水泳とブログがある感じなのだけれど、要するに今週は水泳に行ってない。
 なので先週の水泳報告。45分2000メートル。1分50メートルのペースを保ってフルで泳ぎ続けられる日も夢じゃない。まあ今週は泳がなかったんだけど。

◇雄叫びをあげながら寝返りに挑戦する息子は、しかしまだ要領がわからないでいる。風が吹けばぱたんとうつぶせになりそうな姿を見ながら、もどかしい気持ちで妻と笑う。
 息子が寝静まると、今度は妻が我が子のように見えて来る。

◇木曜日は映画版『ヒミズ』を観てきた。今回の映画化によって気がついたのだけれども、『ヒミズ』という作品は、今後も様々な人によって再解釈されていくのも面白いかもしれない。多義的な解釈を可能にする原作について、あるひとつの方向を持った物語として読み替えたのが、園子温版『ヒミズ』だった。

 それはさておき、とりあえず園版『ヒミズ』を一本の独立した映画として観ると、水にまつわるお話ということになる。主人公の少年は川辺に暮らして貸しボート屋を営み、その敷地内にブルーシートを張って生活しているのは、2011年の震災によって津波被害を受けた人々である。物語の重要なシーンでは、人物が雨に濡れ川に落ち泥にまみれるなど、とにかく執拗に水浸しの人々の映る映画となっている。
 主人公スミダは一生普通に暮らすことを願う中学生なのだが、その理由は不条理を感じずには居られない家庭環境にある。たまに顔を見せては金を無心して暴力を振るう父親と、男にだらしない母親。スミダがこの環境を「ありきたりの不幸話」と片付け、普通であることに執着するのは、その状況に甘んじて自堕落な生活を送ること、及びそんな両親への嫌悪だろう。
 また、彼は普通でありたいという願望とともに、もうひとつ重要な願いを口にしている。「誰からもジャマされず…」。彼は自らの人生について、常に誰かから暴力的に脅かされるように感じており、自分のあるべき普通の人生を他人に破壊されているのだと考える。ともすれば弱音を吐いてしまいかねない感情を抑え込めるように、意固地に「ありきたりの不幸話」と言い切るが、その裏側にはこの環境への激しい憎悪が浮かぶ。「たまたまクズの両親の元に生まれただけだ。俺は立派な大人になる」。だが、自分の人生をめちゃくちゃにする暴力に対し、衝動的反射的に、そして象徴的に抵抗を試みた結果、スミダは父親を死に至らしめてしまう。
 彼の人生を暴力的に歪める両親さえいなければ、彼の人生は彼のものとなるのだろうか。しかしスミダは、自分の人生のために父親の人生を奪ってもいる。暴力による干渉はスミダの最も嫌悪するところであるが、だが他でもない自分こそが、その最大の干渉を働く張本人なのである。そのことに充分自覚的なスミダは、自分の人生を自分のものとする夢を諦め、社会のために、それも最大の干渉を働いた者らしく、卑しく使うことを決意する。一年以内に悪いヤツを見つけ、一人殺す――。「オマケ人生」の始まりである。
 さて、映画はこのあらすじに震災の影を忍ばせようとしている。明らかに整合性を欠いた部分も多いが、しかしその試みは一定以上の成功を収めていると思う。暴力的な干渉を常に孕み続ける運命に対して、どのように対峙するか。それを模索するスミダに、震災という圧倒的な不条理に臨む態度をなぞらえることもできるだろう。その意味で、古谷実の『ヒミズ』は良い素材であることは間違いない。
 ネタバレしない範囲で言う。まずこの作品は、詩の朗読によって幕を開ける。ググってみると、どうやらヴィヨン『軽口のバラード』というものらしいのだけれど、とにかくこの詩はひたすら、わかるものとわからないものの区別を宣言していく。そのときスクリーンに映るのは、津波によって積み上げられたがれきの山。がれきのひとつひとつをよく見れば、確かにそれが倒壊した家屋の一部であったり、家電や自転車であったりと見分けることはできるのだけれども、しかし同時に沸き起こるのは、それが分かったところでどうだというのか、という気持ち。「何だってわかる、自分のこと以外なら」。スミダがこめかみにあてた拳銃の引き金を引くところで、その映像はぷつんと途切れる。
 これが本作の幕開けである。だが、この作品はそうした無力感から出発するとともに、反対側の極に、二階堂ふみ演じるチャザワというヒロインを置く。彼女は溌剌というよりも、もうほとんど異常とさえ言える好意をむき出しにしてスミダにつきまとい、希望ある方向へと導こうとする。スミダの物語を、チャザワがひっくり返そうとする図式を保ちながら、この物語は進んでいく。
 チャザワの好意は、当然スミダにとっては干渉である。だから彼女との接触には常に暴力が伴うことになるのだけれど、実はそのとき、用意されているアイテムがもうひとつある。それが水なのである。自と他の境目を曖昧にする水が、自と他を分割する暴力とともに描かれるとき、チャザワとスミダの間には性的な関係が結ばれる(最初に川辺で殴り合ったあと、びしょぬれのチャザワとスミダの間には、なんと虹が引かれている)。この水の暴力とは、言うまでもなくスクリーンの外に記憶される津波にもなぞらえられ、全く唐突に遭遇してしまう水の暴力とともに、スミダとチャザワはある方向に向かって突き進まざるを得なくなる。つまり――あまり野暮なことは言わないようにしたいので歯切れの悪い言い方になるけれど――セックスの先にあるものを、津波の先に見ようとする決意を感じられるラストシーンだった、ということだけ言っておく。チャザワがしまい込む「呪いの石」とは、怨念の託された水辺の石であり、つまりはこれからの子供のことなのだろう。

迷惑をかけずに生きようなんて傲慢。生きるってことは、迷惑をかけるってことですから。
松江哲明童貞。をプロデュース』より、カンパニー松尾の台詞)

◇ところで、好き嫌いを超えたところで語られる映画であることは間違いないが、とはいえ原作の解釈というレベルにおいては、園子温監督の読みはいささか単純明快な方向に引っ張り過ぎたようにも思う。以下に書き連ねることは、映画作品への評価ではない。そこから見える原作読解への評価である。
 古谷版との比較において、最も違うのは父親を殺すシーンだろう。園版においては、父親による具体的な暴力によって干渉の暴力性を描くが、古谷版においてそれはない。明らかにダメっぽい父親の姿は描かれるが、住田に暴力を振るっていたかどうかはわからない。というよりも、殺害シーンにおいては、住田の方から一方的に父親に向かってコンクリブロックが振り下ろされるのである。不慮の事故という形式を取る園版スミダは、古谷版住田とは別人物である。
 園版『ヒミズ』は、そこに主人公の迷いを挟むことによって、父親が居なくなったところで自分の人生が自分のものになるのではない、ということがあらかじめ見え隠れしている。震災後の日本の話としてアップデートする*1、という園監督の主張は、まさにこの部分に顕われているのだろう。これは、不安の立像たる「バケモノ」の扱いにも繋がって来る。園版において、「バケモノ」はただ単純にスミダに殺人を促す具体的人物としてしか顕われない。古谷版の「バケモノ」が、善悪の彼岸から運命を告げる不条理であったのとは大分異なり、むしろそのような存在を園版に見つけることはできないのである。これはつまり、住田よりも幾分周りの見えているスミダには、しかしその分、「バケモノ」との切実な対話をする権利を持たないことを意味する。簡単に言ってしまえば、その後の「悪いヤツを殺す」という理屈を持ち出すには、この状況は大分弱く、どう考えても警察に自首する方が賢く思われてしまう。
 なぜ古谷版住田が、あれほどまでに警察への自首を拒んだのか。単純化して言うならば、そのような道徳的な意味での罪を感じていないからである。住田の倫理においては、それは正当化されるべき行為であった。自分の人生を暴力的に歪める存在への、唯一の抵抗である。だが皮肉なことに、自分の人生をあるべき普通の形に戻し、自分のものとして宣言する行為は、クズを殺すということになってしまう。この状況に整理を付けるために設けられた、一年間の猶予つきオマケ人生とは、広く社会のために生きるという形式を取りながら、実は自分のために生きる手段を探るどうにかして見つけ出したい期間でもある。
 バケモノの言う「決まってるんだ」とは、住田が普通であるか否かを宣告するのではなく、ただ、最初から最後まで自分の人生は自分のものと「決まってる」ということである。あるべき普通の人生が、誰かの暴力によって歪められるのではなく、始めからそういった暴力ありきで運命は決まっている。古谷実ヒミズ』のラストが、一面ではどうしようもない感情を呼び起こすとともに、しかし同時にある種の清々しさをたたえているのは、このバケモノの囁きに希望を託すことも可能だからである。それは次作『シガテラ』において、「不幸になるまでがんばる」という台詞に明言される決意である。不幸になることがあらかじめ決まっていようとも、それをも織り込んだうえで、「がんばる」。無力感に陥るよりも先に、常に既に動かざるを得ないこの「しょうがなさ」は、どこまでもポジティヴなものではないだろうか。

午前10時。給油の景色。

◇冬の家事では、ベランダでの給油作業が一番好き。ダウンジャケットを羽織って、窓から外へ出る。灯油のにおいを嗅ぎながら、部屋の中では妻と息子がけらけらと笑い合っている。

◇年末年始は妻の実家で。紅白の途中で眠くなり、全員0時を待たずに就寝。
 考えてみれば当然のことだけれど、祖父母が居る環境は子育てに向いている。普段暮らしている分にはあまりわからないものだが、ほんの数分程度、誰かに赤ん坊の抱っこをお願いできる状況に置かれるということが、これほど気持ちを軽やかにするものかと驚いたりする。核家族という構成は、本当に油断の許されない毎日を余儀なくされている。子育てに限ったことではなく、基本的に一人暮らしであろうと夫婦ふたりの暮らしであろうと、それは物理的に外界から断絶された存在なのである。そういったことを、子供という存在がもろに浮き彫りにしていく。

はてなブログhttp://andoh3.hatenablog.com/)の方に移行するか検討中。はてなダイアリーの方からそのまま移行できるプランが用意されるのを待つかもしれないけれど。

◇ラップを考えていくうえでどうしても避けて通れない話題のひとつとして。

事後的にこの時自分がやろうとしていたことを振り返ると、言葉の持つ詩的浸透力と切断力を、文学に接近することなく音楽に適用しようとした、といえるかもしれない。(鈴木治行『イマジナリア(1)』アルテスvol.01所収)

 あるリリックを読むだけで評価できるとき、それは優れた散文の評価ではあっても、ラップの評価ではない。ラップは紛れもなく歌であり、言葉に物理的な質量を持たせている。つまり、重力や時間という物理法則からの制限を受ける。もちろん、紙に書かれ、黙読を前提とした文章であってもそれは同様なのではあるが、しかし文学作品とは、そういった制限を課さないことをさしあたりの前提条件にしているように思える。小説家自身は締め切りや枚数など様々な制約を受ける身体を持っているが、作品はそうした作家の物理的な身体からなるたけ切り離して考えられようとしている。作品のヴォリュームは、物理的な制限から自由であり、言葉の配置や物語の展開のみを存分に問題にできるのである(おそらく文学と印刷文化は、きっとそういう意味で全く歩みを揃える。“書”になってはいけない)。作品の終わりは、ページ数ではなく、語りの収まり方によってのみ決定される。
 発話、それも音楽に乗る言葉の場合はそういうわけにはいかない。言葉は物質化することで、シラブルや発話者の声という物理的な条件を備えるようになる。ここでようやく、言葉はひとつの音楽を奏でるための楽器になるわけだが、しかしこの楽器は非常に気難しい。人の声というもの自体が既に情報量が多いと思うのだが、それに加えてこの楽器を難しくさせるのは、いうまでもなく言葉である。言葉それ自体に意味やイメージという非物質的なものが付着しており、それを連ねることによって、律動・旋律・和声・音響などによって紡がれた時間とは別の、異なる時間感覚を用意してしまう可能性を孕む。それを野放しにしていると、リリックはすぐさま音楽から自律しようとし、文学への接近を始める。
 文学に接近せず、音楽に言葉の詩的浸透力と切断力を適用しようとする場合を考えるとき、重要になってくるのはおそらく沈黙という概念ではないかと思う。沈黙を聴くという行為は、言葉が物質化しない限り不可能だからだ。つまり沈黙という現象をどのように捉え、表現するかを見れば、それがそのまま音楽と文学における違いとしてはっきり浮かび上がるのではないだろうか。そんなことを考えつつ、やっぱりジョン・ケージとか読んでみるべきなのかと思ったりする。

◇日常的な話し言葉に接近させるように歌うラップは、日常生活の社会性をそのまま音楽の一要素として紛れ込ませる。もしくは、日常的な話し言葉に音楽という要素を潜り込ませる。いわゆるミュージシャンとも少し違った気配を纏うラッパーという人々は、音を操るシャーマンというよりも、ワークソングを口ずさみながら労働する生活者といった趣きの方が強い気がしている。

佐々木敦未知との遭遇』。「最強の運命論」というのをぼんやりと考えつつ。
 運命というと、それを心理的に受け入れるか拒絶するかの選択を常にせねばならないような印象があるけれど、実はちょっと違うかもしれない。波のように押し寄せる運命に対して、面と向かって対峙するのではなくて、こちらの身体の角度を調整しつつ、乗りこなしていくべきものなのだろうと思う。
 乗りこなした結果、このままいけば絶対岸壁にぶち当って死ぬという状況はある。しかしそれもまた運命である、とするのが「最強の運命論」と思ったのだけれども。

古谷実の『ヒミズ』と『シガテラ』は、同じことを対照的な角度から語った作品だと思っていて、結論も全く同じだと思っている。両作品のラストを比較して、『ヒミズ』を絶望、『シガテラ』を希望とするような読解は可能かもしれないが、やはり僕はそうではないと思う。どちらも、等しく希望の話だ。
 運命があらかじめ決まっているものだったとして、どのような態度を取るべきか。想像を絶する最悪の出来事がいずれ必ず起きるとしたら、そしてそれはそうなる運命なので、あらゆる手段を講じてもそれを拒否できないとしたら、無力感に陥ってしまうかもしれない。だが『シガテラ』は、ここに「不幸になる直前までがんばる」という覚悟を表明する。不幸や幸福というのはある一点のみを指し示す状態に過ぎないが、絶望や希望は時間的スパンを伴う姿勢である。つまりこの宣言において試みられているのは、不幸と絶望に区別をつけて捉えなおすということであった。主人公荻野の「不幸」はついに実際に訪れるが、しかし荻野は死なずに生きている。自分の自覚的な態度によって、不幸の意味を変えていく。
 『ヒミズ』も全く同様である、と言うと少し違和感を覚えるかもしれない。しかし「決まっている」ことが宣言された後、主人公住田は紛れもなく「悪いヤツ」を殺したのだと考えてみる。そこには『シガテラ』における「がんばる」にも通じるポジティヴな姿勢があったのではないだろうか。「決まってるんだ」というバケモノの囁きは、普通の生活を手に入れられないという宣告なのではなく、普通か否かというこちらの価値判断とは全く無縁なところで、ただどうしようもなくそうなのだと語るのみである。それは住田にとって、必ずしも絶望を与えるものではない。その声はむしろ、ある種の自由をもたらす希望に満ちていたのではないだろうか。彼は彼でしかあり得ず、限り有る存在である。その指摘にうなずくことで、住田は他律的な判断に依らず、自身の運命を積極的に認めることができる。普通か否かを気にすることなく、自分の生を全うすること。社会的なつぐないの儀式を持って終わりとすることなく、自身の判断によって行動を清算すること。
 これは単に自分の決めたルールのなかに自閉することとは異なる。ただそうなるしかないのだという囁きにうなずきながら、その一方で死の意味を読み替えることである。死は恒常的な現在である。が故に、今現在進行形で生きている者にとっては、希望の時間の終わりを告げる不幸であるか、あるいは反対に絶望の時間の終わりを告げる幸福であるかのどちらかに見える。しかし、それはどちらも死に対する消極的な享受でしかない。自分の自覚的な態度によって、不幸の意味を変えていく。多義的な死を幸福か不幸かのどちらかに分類するより先に、そこに向けた積極的な時間の持続を図る。住田の人生は、最後に取り戻されたのではないだろうか。

◇『ヒミズ』は連載終了後、単行本にまとめられる途中でラストページの差し替えが行われおり、住田の恋人である茶沢の「なにそれ?」という台詞がまるごとカットされている。これにはまず、蛇足の一言を取り除くという理由が挙げられるだろうが、それが蛇足であるという根拠のひとつに、僕の勝手な推測だが、住田の行動を単純な否定に晒されないような配慮が見て取れるような気がする。

◇今年もよろしくお願いいたします。

午後9時半。寝息のユニゾン。

◇息子を寝かしつけている最中に、ふと振り返ると妻も寝ていた。寝顔がよく似ている。
 日曜日の夜はなんとなく夜更かしをしたいので、ふたりを起こさないようにPCの前まで戻る。いくつか溜まった音楽を聴いたりエロ動画を見たりしているうちに、自分でも驚くほど早い時間に眠くなってしまった。苦心して手に入れたハートランドも飲まないで、布団に戻ることにした。

◇久々の水泳は45分1850メートル。腕が痛い。

CLSCmise(Mise Colvics)さんの運営する日本語ラップ情報サイト『2Dcolvics』(http://blog.livedoor.jp/colvics/)にて、日本語ラップの2011年ベストを選ばせていただいた。
 CDからアナログ、フリーミックステープまで、とにかく今年リリースされた日本語ラップというくくりの中でランキングを作成するという企画主旨が大変面白いのだけれど、いざやってみると非常に骨が折れる。何しろ、楽曲の並びのみで批評性を持たせなければいけないのである。そういえば、ランキングを作るということ自体、中学の頃やった好きな女の子ランキング以来だなあと思いながら、この難題に取り組んだ。

◇ラップは音楽的な技法のひとつだが、喋り言葉に近いという特徴を持っていることから、社会的な側面を強めることが宿命づけられている。ラップをその重要要素に定めるヒップホップは、メロディやリズムなどの要素と同様に、社会性もその音楽を構成する要素のひとつに数える。その意味において、ヒップホップはシーンというものに対して、他の音楽よりも多少なりとも意識的で有らざるを得ないかもしれない。
 ただ、シーンとは、ある線を境にして内と外とをはっきり分けるものなのではなくて、ある点の発した色と、隣の点の発した色が互いに影響し合いながら総体がグラデーションをなしていくようなものである。例えばあるところにはスチャダラパーが居て、あるところにはボスが居て、あるところにはクレバが居る。彼らは独自に自身の色を放ちながらその周囲に影響力を及ぼしており、僕らは彼らラッパー全員の彩る模様を見て、日本語ラップシーンの現状を観察する。
 つまり、ラッパー自身が各々の問題意識からラップをすること自体が、そのままシーンの形成に直結するのである。自分自身が今シーンの内側に居るか否かを問う必要は全くなく、むしろそれに怯えることをこそ、僕はセルアウトと呼びたい。
 そういったわけで、自分の問題意識にしっかりと取り組んだラップをする、というのを最低限の条件にしたうえで、彼らの影響力を順位に反映させていただいた。もちろん影響力とは、物理的に何人の賛同を得るかということだけではなく、音楽自体の面白さやリリックの面白さということも全て加味したものである。

2011 BEST ALBUMs In 日本語ラップ(Selected by 安東三)
 まず、10位と1位を最初に決めた。いわば日本語ラップシーン全体を背負うような格好になっているseedaは、海外から最先端の音を輸入しつつも見事に血肉化したラップを響かせるが、パブリック娘。は日本語ラップシーンという意識とはおよそ無縁なところで、ラップ自体が持っているプリミティヴな魅力を存分に聴かせている。この二者を平面上の両極と定め、今年の日本語ラップの立体的な像を立ち上げたい。
 9位のkakatoは、環ロイと鎮座ドープネスというフリースタイル巧者の即興的快楽を、カラオケという密室空間を聴き手とともに共有することによって見事に再現している。反対に、トラックとラップの相乗効果によって空間を支配することに成功したのはsick team(8位)で、おそらく今年最もスタイリッシュな完成度を持っていたのはこのアルバムだった。7位のサイプレス上野とロベルト吉野は、持ち前の爽やかさと相変わらず切れ味抜群のアイデア&レトリックを駆使しつつ、実はフロウのバリエーションも増やしており、まだまだ懐の深さがある。アナーキー(6位)を聴いて気がついたことは、泥臭さと器用さは矛盾しないということだった。声の調子はあまり変えずとも、リリックの書き方によってここまで様々な表情が出て来るのか、という驚きがあった。元々アナーキーはラップのメッセージについて非常に聡明な見解を持っており、その分析の鋭さを証明するアルバムに仕上がっている。
 5位はmoment。韓国語と英語と日本語のスイッチを成り立たせているのは、三ヶ国語をまたがる韻である。意外に言葉を詰め込み過ぎないフロウだが、にも関わらず複雑な揺らぎを聴かせるのは、異なる言語間で踏まれた韻のグルーヴだからなのかもしれない。今後もさらに独自のグルーヴを刻んでいくだろうと思う。日本語について別角度から腑分けしているのは4位のクチロロである。音が言葉として像を結ぶまでを音楽空間のなかで再現した『あたらしいたましい』は、PVも見事にビジュアル化されていて舌を巻く。耳が単語を受け取る速度を変えたのはラップだったろうけれど、今回のクチロロの作品はその速度の制御に挑んでいる。3位のmintは、軽いにも関わらず奥行きのある音楽としてのラップを存分に聴かせてくれる。それがメッセージであろうと言葉遊びであろうと、ラップされた時点で、僕らは音楽的になんらかの高揚を促される。『yeahでごまかしてる』すらアゲアゲにリミックスされてしまうこの肌触りはイルリメにも通じるけれど、多分ミンちゃんの方が振り切ってる。一番驚いたのはECD(2位)だった。おそらくタイトルの『DON'T WORRY BE DADDY』の一言に集約されてしまうのだけれど、年を取って体力が落ち、しかしそのかわりに獲得されていく迫力をダイレクトに反映させることができるほど、ECDの生活はラップされ続けている。原発デモ中のパフォーマンスもレコーディングも、全く同じ強度を保ったまま聴かせてしまう凄みは、そういうことなのかもしれない。1位のパブリック娘。は僕が今一番推したいアーティスト。一位に選んだ理由は、彼らのラップを聴いていると自分もラップしたくなる、ということに尽きる。このシンプルな感情を呼び起こす才能こそが、ラップ・ミュージックに最も大切なものであり、かつ得難いものでもあるように思える。パブリック娘。の具体的な楽曲についての言及はこちらを→http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111107

◇それから、2011 BEST on YouTube In 日本語ラップ (Selected by 安東三)というのも選んでみたので、こちらもよろしければご覧ください。

◇そうそう、僕はシーンという呼び方は別に良いと思うのだけれども、クラスタという呼び方にはちょっと違和感を覚えたりする。

◇昨日、土曜日は息子の予防接種に。初めての三種混合とHibの同時摂取だったが、思ったより早く泣き止んだ。なかなか泣きやまなかった先週の肺炎球菌は、やっぱり相当強い注射なのだろう。風呂に入っている頃には、腫れはもうほとんど見当たらなかった。息子は注射は嫌いだろうけれど、直前やその後は比較的笑ったりしているので、病院自体は居心地が良いのかもしれない。

午後7時。昼の喧噪を奏でる冷蔵庫。

◇本日は息子のお宮参りがあったため、両家の両親が我が家に集まって昼食を摂った。主にうちの母親がずーっと喋っていたが、皆が帰ると、僕らはクタクタだった。早めの風呂の後、息子はそのまま寝てしまった。妻も添い寝をしたまま休んでいる。僕は久々にひとりでブログを更新している。

◇水泳は、お休み。水の交換とやらで市民プールが来週まで営業していない。なんだか最近は思い出したときに泳ぐ、といった感じになってしまう。

◇先週はパブリック娘。の面々に色々と聞くべく、明学に行ってきた。やはり相当に“わかっている”彼らのクレバーな態度に改めて感動する。
 明治学院大学は学生に“Do for Others”の精神を求めるが、それを可能にするには、先に自分たちの輪郭を明確にしなければならない。ラップは言葉によって自分の身体と時間を自覚する行為である。与えられた時間をただ享受するのではなく、あるいはそれを否定するように自分の時間を声高に叫ぶのではなく、所与の時間を咀嚼し、再び吐き出すことで、時間を自分のものにしていく。そうでなければ、自分は自分の生を生きられず、他者の生を認めることもできない。漫然と教会に行くことが信仰の表明にならないように、自覚のないところに倫理は伴わない。その意味でも、ラップは極めて倫理的な行為だろう。もしかしたらそこが、詩と大きく異なるところなのかもしれない。

◇ところで、フリースタイルがうまくなりたい。

◇昨日は息子が爆笑した。笑いのメカニズムには諸説あるが、僕が信頼しているのは情報のアウトプットとインプットの齟齬によるという説。情報を受け取ったとき、それを処理してなんらかの反応をするというのが一連の手続きなのだけれど、変な情報が入り込むとアウトプットするまでの間に、身体は痙攣を起こす。あるいは普通の情報が入り込んでも、それを自分のなかで変な処理を施して笑えるものにしてしまう。つまり、処理を施すという能動的な態度がそこにはあるんじゃないか、と思ったりしている。赤ん坊の「泣く」は結構直接的かつ受動的かもしれないけれど、「笑う」は能動的に情報を処理しようとするときに顕われるような、つまり理性の片鱗がそこにはあるような気がする。
 泣けるものより、笑えるものの方が信用できそうな気がするのは、僕が上の仮説に則って考えるからかもしれない。

◇やば。

午前7時。頑固な寝癖と赤子の泣き声。

◇今日は母方の祖父母の記念会*1がある。着なれないスーツを用意して、寝起きの髪を整えようと水でぬらすが、寝癖は一向に直る気配がない。食卓の方から息子の泣き声が響いている。今日僕は息子と妻を残して遠出をしなければならないのである。耳の奥に息子の泣き声が残る。

◇そんなわけで水泳はお休み。

◇土曜日は息子の予防接種を行った。Hibと肺炎球菌の予防接種が、生後二カ月から可能なのである。かつてはこの二つを同時に投与するのが一般的だったらしいが、過去に事故があったこともあり、以降、病院によっては別々に投与するところも増えてきている。
 妻は僕に、丁寧にウイルスと予防接種の制度について説明をし、また近所のどの小児科が別々の投与を行っているかをしっかり調べてくれていた。他にも乳幼児の予防接種の種類は多く、またどれもが一度受けておしまいとはいかないので、子供の体力を考慮したうえで、かなり綿密な計画を立てる必要がある。妻はそれを一枚のグラフにまとめて僕と相談し、予防接種時に医師に相談した。実際の生活行動に根付いた動作を、ごく当たり前のこととして平然とやってのける姿に、僕はあらためて感心している。
 息子は注射の際に泣きだしたが、その後拒否反応を起こすこともなく、高熱も出さずにこの週末を過ごした。真っ赤になって泣きだす姿が、気の毒だが愛らしい。

江藤淳『日本と私』。アメリカでの生活を終えて日本に帰ってくるエピソードに始まるこのエッセイは、しかし友人「Y」の死によって、ぷっつりと中断されたままになっている。日本と私の関係をひとつの作品として完結させることができなかったということになるだろうか。
 アメリカで正々堂々と、孤独に耐えうる強靭な個人として振る舞うことのできた江藤淳は、日本の生活そのものについても次々と言葉にしていこうとする。けれどその文章は、福田和也の言葉を借りれば「感情による揺らぎを見せている」。

日本の社会で「適者」になるためには、自分の輪郭を適当にぼやけさせておくことが必要なのかも知れない。 ――江藤淳『日本と私』

言葉は、物事の輪郭を丁寧になぞる作業によって成り立っている。日本において自らの生活を言葉にしていこうとするときに居心地の悪さを感じるとき、血縁や地縁などによって繋がれた者以外を排除するあの気持ち悪さを見つけることができる。
 友人とは、私と君とは他人同士だという自覚的な振る舞いによって成り立つ関係であり、血縁や地縁などとは異なる極めて「個人」的なものである。山川方夫は、江藤淳が日本の生活のなかで個人であることを認めさせてくれる、ほとんど唯一の友人であった。だから「日本と私」は彼の死によって言葉の着地点を見失い、宙ぶらりんになっている。

◇我が家に戻って妻と息子の顔を見ると、今日一日無事に過ごすことができたことに安心する。不幸を知っているから幸福を噛み締めることができる、という言い分に反対はしないが、幸福を知っているからこそ不幸に怯えることができる、という風に考えた方が広がりがある。

◇風呂場で鏡を見ると、寝癖はようやく直ったようだった。

*1:仏教でいうところの法事。僕の実家はクリスチャンなので、こう呼ぶ。