web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

(ロールちゃんとかPerfumeとか宇野常寛とかアラザルとかについて)雑記

山崎製パンから出てる『ロールちゃん』(http://www.yamazakipan.co.jp/roll-chan/index.html)。このブログでも大分前に書いた記憶があるけど、今もまだ熱が冷めない。キャラが自分の中でものすごく広がって、自分の手で動かしたくなる衝動に駆られる。多分ロールちゃんにはまる人って、ロールちゃんというキャラクターへの想像を膨らまして妄想しまくってるんだろうな。

Perfumeの音楽については正直よくわかりませんが、ダンスについてはああいう形でしかできないことをやってるのでは。音楽は正直「もしもbugglesが現在のグループだったら」っていう「もしもシリーズ」に見えて仕方ないんだけど、ダンスに関しては「このダンスを踊るのはこの人でしかありえない」っていう素晴らしく理想的な状況になってるような気がする。身体表現って身体の絶対性と向き合わざるを得ないわけですが、「Perfumeの振り自体はPerfumeでなくてもその通り動くことができる。が、Perfumeでなければダンスとは呼べない。」っていう微妙で危ういギリギリの絶対性の上でなんとかダンスしてると思う。あの振り付けはすごく管理されてる感じだけど、でもその管理自体少し複雑で(リズムを細かく割って捉えるから、一見してすぐ覚えられるものでもない)、かつその管理に収まりきらない部分が滲むように設計されてる。その動きの外側が見えるものをダンスとするならば、あの振り付けはPerfumeが踊らなければダンスにならない。

◇『speed』再結成に、かつてのAvexを彷彿とさせる『GirlNextDoor』、小室哲也逮捕&保釈もその流れに入るかもしれないけどw、明らかに僕らの世代がターゲットにされてる。僕は一浪一留だからまだだけど、同世代は若い社会人が多く、使い慣れない可処分所得をCDにまわせっていうのは確かに当たってる。この流れで行くと、次はミクスチャー(笑)再燃かなw。

◇ニコ動にあがってる『早稲田文学10時間シンポジウム』。まだポッド1しか聞いてないけど、注目の宇野常寛さん、面白いと思った。シンパシーすら感じる。
 少なくとも誰かのお尻にくっついていくことは避けている。彼のそうした行動は、もしかしたら彼自身のルサンチマンから来てるのかもしれないけど、でもこじらせたルサンチマンをきちんともう一度反転させてるのは二重にひねくれた誠実さ(「誠実の反対、の反対」)だと思う。そこを評価できないやつは、誰かの後ろにくっつくことで自分のうしろめたさを覆い隠そうとしてるヤツではなかろうか。宇野さんはそういったヤツに自分の嫌な部分を見出して徹底的に攻撃する。そういうヤツも宇野さんにイタイところ突かれて嫌いになる。っていう構図w。『ゼロ年代の想像力』も、今度しっかり立ち読みしようと思う。
 宇野さんといえば、僕は以前『PLANETS』近辺の古谷実についての座談会を読んだことがあって、それに関する言及には強い違和感を持った。けれど、上のような解釈の上で勝手な印象を書いてしまえば、彼は確信犯的に恣意性をもって作品を読み、語っているような気がする。このあたりは僕自身もわかっていないんだけど、じゃあ彼はなんで作品を作らないんだろう。小説を書いたらいいのに。
 僕も自分で小説を書こうと思うんだけど、でもそれより先に作品を語ることで自分を語ろうとしてしまう。そっちの方が、なんかやりやすく感じてしまうのだ。でもかといって「宇野さんの批評」に違和感を持つ僕は恣意性に偏ることもできずに、批評とも思えない文章をつづる毎日です。

アラザルブログにて、「大体」毎日批評が更新されるということです→http://gips.exblog.jp/。僕も大見得きって「書く!」と言ったはいいのですが、実はまだなーんにも考えてない・・・。

◇自分では自覚なかったんですが、最近やっぱイライラしてるみたいです。いろんなブログを見ていると、延々と、当事者にしかわからないような口調で愚痴を書いているものにぶつかることがあります。元気なときは「ブログってこういうガス抜きの効果もあるから重要だよね」なんつってディスプレイに向かって親指立てて力強く頷く余裕もあるわけですが、落ち着かないときにそんなのにぶち当たると、そのエントリから立ち上がってくるもんのすごい悪意に感染してしまって、僕までそのエントリに対する内輪な愚痴エントリをあげそうになります。実際、そういう「内輪愚痴」が必要な人もいます。ですが僕は、せめて僕のこのブログにおいては、それを禁じ手としようと思い、さっき書きかけた文章を消しました*1

*1:とか言ってるこの文章が既に内輪愚痴気味っていうw