午前1時。しゃりしゃりと坊主頭を撫でていると、妻の寝息が聞こえて来た。
◇あまり短すぎるボーズは妻が嫌う。安いバリカンは、大抵9ミリか12ミリが最長なのだが、珍しく14ミリのものを発見した。7月に購入した折に使い、昨夜は第二回目の自分刈りだった。
しかし、髪がそこまで伸びてないせいなのか、バリカンのせいなのか、切れ味がものすごい悪い。ところどころ妻に後ろを手伝ってもらったりしたのだが、どうもうまくいかない。実家にあるバリカンは、ここまで使いづらいものではなかったと思うんだけどなあ。結局、風呂場で2時間程格闘して、なんとか形になった頃には、風呂に入りたがっていた妻はもう寝ていた。
枕に足をのせ、上下逆さまになって寝ていた妻の様子を見ると、おそらく寝るつもりは無かったのだろう。僕が布団に潜り込むと少し目覚めた。逆さま同士で布団を共有しているので、ちゃんと寝ないと風邪ひくよ、今トランプの絵札みたいな状態になってる、と告げると、なんだか異様にケラケラした。多分意味がわかっていない。
今朝確認すると、案の定何も覚えていなかった。
◇昨日久々に『世界ふしぎ発見』を見ていたら、パプア・ニューギニアの通過儀礼がテーマだった。諸星大二郎『マッドメン』のあとがきに、ニューギニアには刺青の風習はなく、作中のそれは創作であると書いてあったのだが、でもクロコダイルマンの相性で呼ばれる人々は、ナイフで肌に傷をつけ、ワニの鱗のような模様を肌に作るそうだ。肌に出来た模様を触りながら、彼らは世界における自分の身体の在処を確認しているのだろうと思うと、僕らが大人になることについてまた考え始めてしまうのだった。
◇社会と世界の違いについて、宮台真司『絶望 断念 福音 映画』には端的かつ明確に書かれている。「社会」とは、私達のコンタクト可能なもの、我々によって規定されるものであり、「世界」とは、ありとあらゆるもの、未規定なものの総体である、と。僕らが日々の生活において触れているのは、もちろん社会である。だから、世界という未規定な存在をついつい忘れてしまいがちなわけだが、たまに「世界」が「社会」の中に闖入してくることがある、という。そこで『マグノリア』の蛙や、『アメリカン・ビューティ』の風に舞うビニール袋の描写が例に出されている*1。
通過儀礼というのは、この「社会」の外たる「世界」を知って、大人になるための行為である。『スタンド・バイ・ミー』では、極めて几帳面にその様子が描かれる。小さな町と「世界」がイコールで結ばれてしまう少年たちにとって、死体を探し、町を離れて森を行くのは、「世界」への憧れである。しかし少年たちが実際に「世界」と触れ合うとき、そこに見るのは死という不条理の権化である。冒険中、何度も死にかけながら、自分が死にうる存在であることを知り、同時に、自分が誰かを死にいたらしめうる存在であることも知る。死体を見て、死を肉感的に知った彼らが、町という「社会」に戻って行くこと。それがつまり、大人になることなのだ、とあの映画は言う。
大人は、死という「世界」の産物に、全く唐突に回収されうることを知っている存在だ。
◇さて、ところで、しかし、死が社会の外にしかあり得ないかというと、実はそうではない。社会は死を観念化して回収する。死というリアルを、バーチャルに捉えることで、社会の中に死を組み込むのである。
例えば『アメリカン・グラフィティ』の世界観。そもそも車を運転するのがある意味大人の特権とされているのは、車の運転がそのまま人を死にいたらしめる可能性を含んでいるからだが、しかし、僕は去年車の免許を取ったのだけれども、ドライブが窓に映る景色をことごとくバーチャルにしていくことに驚いた。人を殺しうる可能性が、どこか他人事のように感じられてしまう。これはすごく怖かった。
『アメリカン・グラフィティ』の中で一番僕が好きなキャラクターは、スクーターに乗った眼鏡の少年。皆が車を乗り回すなかで、ただ一人のスクーター乗りである彼は馬鹿にされる。しかしその馬鹿にされるスクーターこそが、実はもっとも死を身近に感じられる乗り物ではないか。借りた車の威でゲットした女の子が、最後彼のスクーターの後ろに乗って去っていくことで、あの少女も、あの少年も、大人として生きることを決意しているように思えてならない。
あるいは宮崎の口蹄疫騒ぎのとき、肉牛が殺処分されることに、業者さんがかわいそうだと泣いていた。どっちにしろ屠殺されてしまうのに、かわいそうに思うのは一体どういうわけかと思ったが、おそらくあの業者さんは、肉牛が屠殺され、食卓においしい牛肉として届くという形で、牛の死を納得できる形に観念化していたのだ。牛の死を社会に組み込んでいたのだ。ところが、牛がただ殺処分され、なんの社会的価値をも生まずに死んで行く様子が、あの業者さんのやり切れなさを誘ったのではないかと思う。
◇「世界」はありとあらゆるものの総体ではあるが、「社会」はそのありとあらゆるものをことごとく観念化しようとする。それは言葉の欲望でもある。つまり、逆を言えば、言葉によって世界を捉えようとしても、どこまでもバーチャルでしかありえず、そしてリアルは滑り落ちて行く。
だが、たしかに言葉はバーチャルでしかあり得ないが、その中にリアルが現出することがある。それは、ひとつの完結した言葉を作り上げたときに顕われる。あらゆる表現は、「社会」の中に「世界」の闖入が起きることへの期待だろう。言葉という社会化の道具を用いて、完結を期待することによって、それは起こりうる。
◇吉野和彦『妙義道 その葛藤』
山という「世界」そのものと、家族とのやり取りという「世界」そのものが、言葉という観念化の装置によってつなげられている。が、ここには明らかに「世界」がまぎれこんでいる。
◇以上の理解は、おそらく批評の基本なのだと思える。
◇少し風邪気味のため、水泳にまる一週間行っていない。ヤバい。いきなり体力落ちたりしてないだろうか。焦る。